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  <title>Hush-Hush: Magazine</title>
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  <description>感想を綴る大衆紙</description>
  <language>ja</language>
  <lastBuildDate>Mon, 21 Sep 2026 14:43:25 GMT</lastBuildDate>
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    <title>アラモの蛇</title>
    <link>https://indi-visual11.com/alamo-no-hebi/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-alamo-no-hebi</guid>
    <pubDate>Mon, 24 Aug 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>かつて親友だった、あなたへ</description>
    <content:encoded><![CDATA[<figure class="prose-img"><img decoding="async" src="/img/hjvoclbw4aaauc.jpg" alt=""></figure>
<p>HBO製作のドラマ『Euphoria/ユーフォリア』シーズン3の中で忘れられないシーンがある。ストリップバーの用心棒ビショップが、ゼンデイヤ演じる主人公ルーに逸話を語る場面だ。</p>
<p>かつて店に勤めていたダンサーのひとりにニシキヘビを飼っている女性がいた。彼女はヘビを溺愛していた。勤務中はヘビと共に舞台に立って踊り、帰宅後は寝床をともにした。人語を発さぬという違いがあるだけで、彼女にとってヘビはまぎれもなく恋人や家族に等しい「良き理解者」だった。</p>
<p>だが、ある日突然、ヘビは彼女が与える餌をいっさい食べなくなった。焦燥しきった彼女は動物病院で診察してもらい、その他考えつく限りの方法でヘビの食欲が回復する途を模索した。だが、ヘビは彼女が与える餌に見向きもしない。事の真相は意外な方向からもたらされた。</p>
<p>ヘビの生体に明るいバーの経営者アラモの知人によれば、ヘビの断食が意味するところはひとつ──彼女のことを飼い主ではなく「餌」だと認識しているからだという。ヘビは食欲が消尽したわけではなかった。事態はその逆で、人間の女性という「巨大な餌」を満腹に食するために、それに匹敵する空腹をこしらえるために食時を拒んでいたのだ。真相を知った女性はすぐさまヘビを手放した。</p>
<p>一連の経緯を聞き知ったアラモは、このヘビを彼女から1万ドルという破格の値段で買い取った。</p>
<p class="noind">「人の本性は誰にも分からない」</p>
<p>その教訓を自己の戒めとして胸に刻むために……</p>
<p>かつて江戸時代を開闢し、戦乱の世に太平をもたらした徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗を喫した。比類ない機動力を誇る武田の騎馬隊に為す術もなく翻弄された徳川家康は、この時、自らの死を覚悟し、死の可能性に恐懼した。後日、この時に抱いた恐怖心を忘れぬために、恐怖と苦悶に歪んだ自らの坐像を絵師に描かせ、その絵を生涯手もとに置いたという。アラモにとってのヘビは、家康にとっての肖像画だった。</p>
<p>人の本性はわからない。その心理を言葉で理解しているのと実際に体感するのは次元が違う。今週、ぼくの頭にはアラモのヘビと家康の肖像画が去来していた。それというのも、15年来の親友(だと僕が一方的に思い込んでいただけかもしれないが…)を、たった一通のLINEで失ったからだ。</p>
<p>経緯をいちから語れば2時間ほどかかる。端的に言えば、「long story…」「It&#39;s complicated…」。要するに、洋画ファンおなじみの台詞がしっくりくるほどに、事態は輻輳しており、ここでそれらの経緯を縷々と述べる紙幅はない。ただ、自分の気持ちが一方的に断絶され、拒絶され、二の句を継ぐ間もなく人格を否定されたことに対して気持ちの整理がつかないので、こうして言葉として記そうと思ったまでのことだ。</p>
<p>今週、月曜日の夕刻。仕事がひと段落ついた頃合いに友人から一通のLINEが届いた。文明の利器というのは利便と当時に害悪ももたらすもので、僕の左手につけたApple Watchはその文面を猫の額ほどの極小ディスプレイに即座に表示した。もうLINEをブロックしたので正確な文面は記すことができないのだけれど、その概略は次のようなものだった。</p>
<p class="noind">「お前のXのポストを見た。自ら選んで転職したはずなのに、何を弱音吐いてんだ。バカじゃねぇの」</p>
<p>口論をしたこともなければ喧嘩もしたこともない相手から唐突に「バカ」と言われて動揺した。けど、それ以上に僕はオンラインにおける自分の振る舞いが急に恥ずかしくなった。友人の指摘はもっともだったし、こうして諫言してくれる相手がいなければ、僕はXの鍵垢でダラダラと毒を吐き続けるという卑怯な振る舞いを飽きもせず続けていたに相違ない。</p>
<p>端的に言って、友人の言葉が身に沁みた。顔を張り倒されたような気がした。かつて家康がそうしたように、僕はこの時に抱いた動揺を自己の戒めにしようと心に誓った。そうして月曜日の夜はこれまでの自己の振る舞いを内省し、いささか悄然とした心持ちで床についた。</p>
<p>ここまでは、自分で言うのも何だが美談調だと思う。勘違いした経営者が自費出版で上梓する「自伝」に掲載されていそうなくらい、薄ら寒くなるほどチープな訓話。だが、事態は数日後に一変する。</p>
<p>互いを否定することもついぞなかった間柄の友人から、いきなり届けられたLINEには「バカ」という言葉が書かれていた。面と向かってはおろか、LINEのやり取りですらそんな悪口雑言を交わしたことすらない相手が、いきなり「バカ」という強烈なパンチワードを送ってきた、という事実。僕がこの事態の不穏さに気づいたのは翌日で、そのさらに翌日には友人のXアカウトに次のような投稿がなされていた。</p>
<figure class="prose-img"><img loading="lazy" decoding="async" src="/img/img-20260824-012348.jpg" alt=""></figure>
<a class="linkcard" href="https://x.com/JohnYoshi4/status/2090884156377239576" target="_blank" rel="noopener">
  <span class="linkcard-fav" style="background-image:url(https://www.google.com/s2/favicons?domain=x.com&amp;sz=64)"></span>
  <span class="linkcard-text"><span class="linkcard-title">X で見る</span><span class="linkcard-domain">https://x.com/JohnYoshi4/status/2090884156377239576</span></span>
</a>
<p>事ここに至って、どうやら事態は僕が考えていたのとは随分違うらしい、と気づき始めた。てっきり僕の自堕落さを戒める諫言かと思っていた件のLINEは、それを口実にした個人攻撃だった。入り組んだ事態を解消するのにテキストは不向きだ。言葉が表現できるのは無数に広がった可能性のごく一部に過ぎないし、人が感じたことや考えたことの一部を拾うことしかできないのだから。こういう時は電話に限る。そういうわけでLINE通話を試みるも峻拒され、あまつさえ、さらなる悪口雑言が送られてきた。</p>
<p>どうやら友人は僕に対して怒髪天を衝くいきおいで激昂しているらしい。だが、原因は皆目見当もつかない。事の発端は僕のXでの振る舞いを諌める文面で、そこから個人攻撃をするほどの激昂へと至るまでの経路が絶無なのだから。その後、何度か通話を試みるも、いずれも拒絶され、出どころが不明の憤怒と罵詈雑言は勢いを増すばかり。</p>
<aside class="mediacard tweetcard" data-kind="tweet">
<a class="tweetcard-main" href="https://x.com/JohnYoshi4/status/2090891802366886362" target="_blank" rel="noopener">
<span class="tweetcard-head"><img class="tweetcard-avatar" src="https://pbs.twimg.com/profile_images/2080290990741770240/6r2a0-G0_normal.jpg" alt="" loading="lazy" decoding="async" width="24" height="24"><span class="tweetcard-author">Space Monker X</span><span class="tweetcard-handle">@JohnYoshi4</span><span class="tweetcard-x" aria-hidden="true">𝕏</span></span>
<span class="tweetcard-text">個人じゃなく、公で話し合って優劣きめよーぜ</span>

<span class="tweetcard-date">2026年8月21日 — x.com ↗</span>
</a>
</aside>
<p>これらの状況と友人がXに投稿した内容を併合するに、僕はひとつの結論に至った。</p>
<p>どうやら、友人は僕に対して怒りを抱いているらしい。その原因も彼が置かれた現在の状況も不明であり、通話という意思疎通は閉ざされている。かてて加えて、これまでの友人の言動からは想像もつかない言動がなされている。おそらく友人が僕に望むのは憤怒の矛先を向ける対象となり、その激情を黙然と受け入れるサンドバックに成り下がることであり、ようするに僕に対する全面的な否定なのだろう。だが、彼の心理・思量はわからない。言葉を交わすことが、こうして書かれた静的な文字言語ではなく、情感を伴った肉声言語では叶わないのだから。</p>
<p>かつて20歳の頃、友人と二人で「いつか海外で映画を撮ろう」と誓い合った。お互いに世間知らずのガキだった。夢を見続けてさえいれば、いつか夢は叶うのだと、ハリウッド映画が産業として成立してこのかた1世紀もの間、鳴り物入りで喧伝してきた幻想を幼気にも信じ切っていた。だが、現実は違う。</p>
<p>僕と友人は20歳からの数年間、寝食を共にし、夢に向かって邁進した。僕はバーに6年間勤めながらシナリオの勉強を続け、ようやく九州の某アダルトゲームメーカーにシナリオライターの職を得た。けれど現実は甘くない。ランサーズで募集しているライター業でさえ文字単価0.5円のご時世に、エロゲメーカーのシナリオライターの給料といえば雀の涙で、手取りは15万円だった。</p>
<p>1年半勤めたけれど、貯金額100万円が底をつき、生活するために退職を余儀なくされた。そうして再び夜の世界に戻った。人間の欲望をごった煮にしたような、ダンテの『神曲』で描かれる煉獄のような世界。それが夜の世界だ。欲望にまみれ、欲望をレバレッジして金を稼ぐ。そこで機能する条理はただひとつ──金を稼ぐこと。</p>
<p>プチ整形した女の子が引きも切らずにキャバクラの門戸を叩くのは、金が欲しいからだ。そこで女の子を「商品化」して金を稼ぐ男たちもまた、金を稼ぐことに余念がない。金と欲望だけが支配する世界。この仕事を50歳まで続けている自分を想像して、吐き気を催した。だから、心機一転してまっとうに生きることを誓い、現在の僕がある。</p>
<p>よくある話だ。社会を知らないがゆえに夢想できた「輝かしい夢」。それが現実の酷薄さに直面した時、子どもは幻想から醒め、大人の階梯を登り始める。シナリオライターに転身した時は、僕の中にもまだかすかに野心や希望めいたものが燻っていたけれど、今思えばそれすらも「甘え」でしかなかったのだ。</p>
<p>現実と理想の相克。かつて無想した甘美な夢が現実の厳しさに晒されるたびに、僕は少しずつ大人になれた気がする。夢を見ることを止め、現実を生きるということ。ありもしない仮構に、他人が描いた他人の理想や幻想に逃げ込むのではなく、艱難辛苦も含めて自分の人生を引き受けること。それが生きるということであり、自分の人生を生きることの意義である。</p>
<p>かつての友人よ。僕が九州を去った後、あなたの境涯に何があったのかはわからない。それを知る手立ては、今はもう失われてしまっているのだから。一度故郷に帰ったあなたが、福岡に来る決意をしたのは、あなたの意志であり、あなたが下した選択だ。</p>
<p>大阪で袂を分かって後、あなたは「いつか映画を撮れたら」と口にはしたけれど、それが人生の最大目標であるような口吻は一度たりとも見せなかった。福岡空港まであなたを迎えに行った時の情景を今でも昨日のことのように覚えている。喫煙所で二人して「マズいよな、これ」と言い合うながらIQOSをふかしたことも、その時の情景もありありと思い描くことができる。</p>
<p>だが、その後、一度たりとも、あなたは「映画を撮りたい」などとは口にしなかった。Youtubeを始めた際にも、僕は何度も意向を確かめたはずだ。</p>
<p class="noind">「お前みたいに喋れないから、しばらくの間は、俺やめとくわ」</p>
<p>僕が単独でチャンネルを軌道に乗せると宣言したあの時、あなたはそう言って賛意を示したはずではなかったか。</p>
<p>かつて「いつか海外で映画を撮ろう」と互いに誓いあった、あの幼気な夢を、決して叶わぬと知りながら、それでも無想せずにはいられなかった二人の夢を、あなたの人生の絶望感を語る言い訳として利用するとは言語道断であろう。</p>
<p>詳細は知るよしもないが、おそらく今のあなたは人生に絶望しているのだろう。自分の来し方行く末に漠たる不安を抱き、その道行きが自分でもわからないがゆえに苦悩しているのだろう。あなたが絶望していることは、Xの投稿からそれとなく伝わってくる。だからといって、かつて二人で語り明かした青臭い夢を、自分の正当性を主張するために牽強付会するような愚行は慎んでいただきたい。</p>
<p>今のあなたが置かれた状況も、あなたがこれまでに下してきた選択と決断の累積、その結果に過ぎず、「自己責任」という便利ワードで圧縮されてしまう類のものでしかない。</p>
<p>あなたが怒りの矛先を向けるべきなのは、「自己責任」という言葉であり、自分に非はないと抗弁するのならば、「自己責任」という安直な言葉でこの世の不条理すべてを転嫁しようとする現代を取り巻く社会状況の方であり、今般の社会をもたらしたより高次の歴史の方をこそ謗るべきではないか。</p>
<p>たしかに、新自由主義経済とそれがもたらす個人主義は、すべてを個人の自己責任に帰する。この辛さはどうしようもない。それは分かる。だが、それを個人攻撃に、いわんや「20歳の頃に語り明かした夢を、今でも追い求めている」というポージングで貶めるのは断じて許さない。</p>
<aside class="mediacard tweetcard" data-kind="tweet">
<a class="tweetcard-main" href="https://x.com/JohnYoshi4/status/2084837864932769952" target="_blank" rel="noopener">
<span class="tweetcard-head"><img class="tweetcard-avatar" src="https://pbs.twimg.com/profile_images/2080290990741770240/6r2a0-G0_normal.jpg" alt="" loading="lazy" decoding="async" width="24" height="24"><span class="tweetcard-author">Space Monker X</span><span class="tweetcard-handle">@JohnYoshi4</span><span class="tweetcard-x" aria-hidden="true">𝕏</span></span>
<span class="tweetcard-text">「人生の残り時間はやがて0になる」。表の人間が社会を回してるってのも分かるんだけどねー。自分が表から夜職に移ったのも、こっちの世界のほうがラクだったからっていうのがある。「進撃の巨人」の終盤のエレンがたまーにストレス過多になって闇落ちした俺に見えてくる🤣</span>

<span class="tweetcard-date">2026年8月5日 — x.com ↗</span>
</a>
</aside>
<p>僕はあなたの自堕落な性格も、自堕落な生活ぶりも、傍若無人な生き方も知っている。そんな身の処し方で映画監督になれるのならば、この世の人間の大半は映画監督になれるだろう。もし、あなたが今だに映画監督を本気で志しているのだとすれば、あなたは映画産業と映画作家を愚弄している。</p>
<aside class="mediacard tweetcard" data-kind="tweet">
<a class="tweetcard-main" href="https://x.com/JohnYoshi4/status/2090887122236604632" target="_blank" rel="noopener">
<span class="tweetcard-head"><img class="tweetcard-avatar" src="https://pbs.twimg.com/profile_images/2080290990741770240/6r2a0-G0_normal.jpg" alt="" loading="lazy" decoding="async" width="24" height="24"><span class="tweetcard-author">Space Monker X</span><span class="tweetcard-handle">@JohnYoshi4</span><span class="tweetcard-x" aria-hidden="true">𝕏</span></span>
<span class="tweetcard-text">俺からは以上。 全部ムカつく、こんなやつに従うな。 知識だけは得られるけど、 そんなもんクソですよ、意味ない。 何の教養もないからね。 ただの個人意思、それだけ。</span>

<span class="tweetcard-date">2026年8月21日 — x.com ↗</span>
</a>
</aside>
<p>最後にひとつ。物事を考えるためには知識が要る。先達たちが残した知識のうえに、ようやく新しい考え、自分の考えが生じる。</p>
<p class="noind">「ただの個人意思」（おそらく意志の誤記だと思うが）と言う非難は、そもそも非難としてすら機能していない。自分の思量や情感について語ることが、作品について語るということであり、あなたのいう「個人意思」とやらが「意志」を指しているのだとすれば、フランス現代思想が繰り返し問うているように、そもそも「自由意志」なるものは存在しない。</p>
<p>大御所バンドが唐突に解散する、という非報を耳にするたびに、その理由を邪推しては納得しかねていたのだが、今になると少しだけ分かる気がする。人の本性は誰にも分からない。だから、一枚岩のように見えていたバンドであっても、ある日突然、空中分解し得るのだ。</p>
<p>僕のなかで最も古い友人だった、あなたとこのような形で別れることになるのは慙愧の念にたえない。
もう言葉を尽くす段階は通り越した。
だから、最後に、一方的にだけれど、餞の言葉を送って離縁とさせてもらう。</p>
<p>今まで、ありがとう。
僕の友人のなかで最も貴重な存在だった、あなたへ。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>スカーレット</title>
    <link>https://indi-visual11.com/scarlet/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-scarlet</guid>
    <pubDate>Sun, 14 Jun 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    
    <content:encoded><![CDATA[<p>細田守の新作『果てしなきスカーレット』が炎上している。</p>
<p>炎上といっても製作者にまつわるスキャンダルではなく、作品の感想を巡ってSNS（おもにX）で酷評派と擁護派が対立しているというのが内実だ。「意味不明」「今年ワースト」「駄作」といった言葉が、まるでBotが吐き出したコピペのようにタイムラインを染め上げている。酷評派も擁護派も、まるで示し合わせたかのように、似たような言葉を使い、似たような主張を投稿している。彼/彼女らの主張およびそこで使われる言葉が画一的なのは、Xの投稿に課された140文字という制約のせいかもしれないし、彼/彼女らの主張の本質が「面白かった」「つまらなかった」というたった数文字の言葉に還元可能だからかもしれない。</p>
<p>今回に限らず、芸能人のスキャンダルでも『白雪姫』や『室井慎次』など映画の酷評ムーヴでも、SNSで擁護派と反対派が大喜利合戦を繰り広げるたびに思うことなのだが、おそらくこの大喜利的なゲームに参加するプレイヤーたちは「何者かになりたい」のではないか。何者かになりたい。他人に見せたい自己像を想定し、その目的に合致した内容を投稿することで、自分が何者かであることを実感したい、証明したい。</p>
<p>そもそも何者かになる必要があるのだろうか。何者かになりたいと欲望することは、自分が何者でもないかもしれない、という恐れの裏返しではないのか。自分が何者でもない(かもしれない)という自らの凡庸さから目を背けたくて、人はSNS上で「何者かであること」を希求するのではないか。しばしば起きる擁護派と反対派の大喜利ゲームの根本問題がここにある。自己と対峙する鏡のような役割を果たすもの、学界から隔絶され虚構の世界に身を投じることで自己を見つめ直す装置、それが映画であり、本来、映画鑑賞とは孤独な行為だったはずだ。しかし、現代の映画鑑賞はSNSによってシェアすることが前提になっている。</p>
<p class="noind">『果てしなきスカーレット』が炎上したのは作品の出来不出来ゆえではなく、作品を「何者かになる」ための、シェアするための素材(記号)とし扱うことしかできなくなった現代の観客のほうにこそ要因を見いだせるのではないだろうか。</p>
<p>泣ける、スカッとする、どんでん返し…こういった記号を抽出し、コンテンツを記号的に消費する。作品の内容は吟味されず、作品はシェアする内容の「素材」に貶められる。昨今のSNS上でやり取りされる映画を巡る感想は、暴論してしまえばすべて「記号の交換」に過ぎない。Youtube動画の再生画面。その下に表示されている2つのボタン(記号)──「Like」と「Dislike」。この2つの記号で表象できる内容がSNS上では「尊くて価値のある個人の感想」として扱われる。そこには作品に対する愛も、作品と向き合う姿勢もない。作品を「素材」として「記号」をシェアし、「擁護派」あるいは「酷評派」というコミュニティへの所属(安心感)を確認しているに過ぎない。</p>
<p>トレンドに便乗したがる人種は基本的に思考停止を決め込んだロクでもない連中だと、卑屈な僕はそう常々思っているので、『果てしなきスカーレット』は未見なのだが(トレンドが去った後でじっくり鑑賞しようと思う)、各レビュー記事をザッピングするに、晩年の黒澤明作品『乱』『夢』との類似点が指摘されており、これらの作品名が言及されているだけで、『果てしなきスカーレット』がどんな系統の作品なのかはおおよそ想像がつく。おそらく抽象的で奇抜なのだろう。</p>
<p>抽象的で奇抜な内容は、「泣ける」「神映画」「どんでん返し」など分かりやすいタグ付けには還元できない。謎解きパズル的な「考察」をしようにも、この手の作品は「謎」が飽和していることがままあり、考察動画や考察サイトにすべての謎の解決を求めても、裏切られる場合が多い。なぜなら、この種の作品は「表現」として受け止める必要があるからだ。「表現」は「表現」でしかない。そこから何を見つけ、どう意味づけするのかは受け手に委ねられる。それが芸術であり表現である。なぜ黒澤明は『乱』で城を燃やす必要があったのか？ あの場面で仲代達也演じる主人公は何を幻視していたのか？ 何を考えていたのか？ その答えは考察サイトにもSNSにも載っていない。私たち観客が作品と向き合い、鑑賞体験を通して、思案するより他にない。</p>
<p>かなり保守的な言説だという自覚はある。昭和世代の保守的な映画ファンは同意してくれるかもしれないが、時は令和7年である。そうは言っても、映画はエンターテイメントなのだから分かりやすくあるべきだ、とか、時代の変化に対応する義務がある、とか、そういった声も少なくないはずだ。</p>
<p>たしかに観客を置いてけぼりにする奇抜すぎる表現・抽象的にすぎる表現は、消費財としては欠陥品かもしれない。だが映画の役割は「記号」として消費されることだけなのだろうか？ カルト映画『ファイト・クラブ』の中でタイラー・ダーデンは言う。</p>
<blockquote>
<p>お前は財布の中身じゃない。カーキ色のズボンじゃない</p>
</blockquote>
<p>企業広告に踊らされて欲しくもない商品を購入することを、つまりIKEAの家具や仕事の肩書やGUCCIの広告といった「記号」を消費する現代人を、タイラー・ダーデンは徹底的に解体する。</p>
<p>タイラーが射程したのは20世紀末の消費社会だったが、彼の主張を現代に敷衍するとどうだろうか。現代はSNSありきの情報社会である。AISAS（注意・興味・検索・行動・共有）モデルに代表されるように、消費行動のなかに「共有（シェア）」が組み込まれている。近年の映像作品が戦略的にSNSでのバズを狙う作り方・宣伝をするのは、SNS上での承認欲求すらも消費サイクルに組み込まれているからだ。2025年の消費サイクルには、SNSが構造的に組み込まれてしまっている。</p>
<p>映画を観て、その感想をSNSに投稿すること＝AISASモデルに忠実に従って消費行動を取ることは消費社会の奴隷になることである。ましてや作品の内実を吟味せず、「何者かになる」ために作品を投稿の素材に貶めることは、SNSを前提とした現代消費社会の忠実な奴隷であることを自らアピールしているに等しい。</p>
<p class="noind">「受容/否定」という二元論的ゲームに参加するプレイヤーは「何者」かであるように振る舞おうとするが、そのじつ、SNSのアルゴリズム(およびそれを包含した現代の消費社会)に「何者かになりたい」という欲望ごと搾取されているに過ぎない。</p>
<p class="noind">『ファイト・クラブ』のなかでタイラー・ダーデンは言う。</p>
<blockquote>
<p>すべてを失って真の自由を得る。</p>
</blockquote>
<p>SNSという繋がり（承認の供給源）を断つことで、すべてを失う。そうして真の自由を得る。</p>
<p>SNSと切断する回路──それはシェアを前提としない映画鑑賞ではないだろうか。</p>
<p>SNSから切断され、作品と向き合い、そうして自らを孤独な状態に置くことで、ようやく見えてくるのではないだろうか。自分は何者でもないという実感が。何者かである必要はないのかもしれない、という希望が。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>窓際のスパイ シーズン5：「ロンドン・ルール」の複層性</title>
    <link>https://indi-visual11.com/slow-horses-s5/</link>
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    <pubDate>Sun, 14 Jun 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>ドラマ</category>
    
    <content:encoded><![CDATA[<p>Apple TVオリジナル・ドラマ作品の人気シリーズ『窓際のスパイ(原題：Slow Horses)』は、MI5（英国情報局保安部）の落ちこぼれエージェント達が国家の危機に立ち向かうスパイ・スリラーだ。2022年にシーズン1の配信が始まり、約3年の間に計5シーズンも立て続けに制作された。シーズン6・7の更新がすでに決まっていることからも本シリーズの人気ぶりがうかがえる。</p>
<p>僕は本シリーズの大ファンで、隔週で配信されたシーズン5も大いに楽しんだ。これまでに配信された過去のシーズンを総括しても、本シーズンは出色の出来だった。なぜなら『窓際のスパイ』は、シーズン5を通して“スパイもの”というジャンルにおける自身の立ち位置を地政学的に再定義したからだ。これまでのシーズンではシリアスとユーモアを織り交ぜることで、いかにも英国らしい軽妙洒脱なスパイ・サスペンスとして振る舞ってきた本シリーズは、シーズン5で原作小説を意図的に改変してまで地政学的な危機意識を前景化している。</p>
<p>結論を先取りすると、『窓際のスパイ』シーズン5は、原作小説 第5巻目の副題『London Rules（ロンドン・ルール）』の意味をスローホースとリビアの両方に掛けることで英国というシステムの脆弱性を見事に描き出した。原作者ミック・ヘロンが創造した諜報用語《ロンドン・ルール》が、MI5の落伍者集団スローホースを産み落とし、リビアの反政府組織による報復を招いたのだ。</p>
<p>ロンドン・ルールは、原作小説で定義されるような「責任転嫁・保身・立身出世のための官僚的な処世術」に留まらない。『窓際のスパイ』シーズン5において、この架空のスパイ用語はミクロな組織内政治からマクロな地政学に至るまで、フラクタル（自己相似）に適用される。</p>
<p class="noind">『ロンドン・ルール（London Rules）』はMI5の内部規律ではない。それはMI5の本部から泥沼の家（スラウハウス）、さらには英国外交に至るまで複数のレイヤーにまたがる英国の内在論理だ。本稿では、シーズン5の原作小説とドラマ版の決定的な相違点であるテロリスト集団に焦点を当てることで、シーズン5における『London Rules（ロンドン・ルール）』の複層性を確かめてみたい。</p>
<p>スラウハウスの天才ハッカー、ロディ・ホーに恋人ができたことから物語は始まる。自己愛が強く、窓際族に追いやられたのは自分の能力を正しく理解しない組織に原因があると思い込むことで自分を慰撫する独身男……端的に言って、ホーは鼻持ちならない奴だ。そんな彼に恋人ができた。椿事はこれだけに留まらない。</p>
<p>時を同じくしてホーは何者かに襲撃され、ロンドン各地でテロが頻発。ロンドン市街が混乱を極めるなか、ポピュリスト政治家や過激派が扇動し、混乱に拍車をかける。ギークなハッカーに恋人ができた椿事を皮切りに、ロンドンは混沌とした様相を呈していく。英国の中心街を襲う未曾有の危機にMI5の落第生（スローホース）が立ち向かう……これがシーズン5の物語だ。</p>
<p>テロリストたちはロディ・ホーを罠にはめて入手したMI5の機密文書「不安定化戦略（Destabilization Strategy）」に基づいてテロを実行する。「不安定化戦略」とは、英国が他国から攻撃を受けた場合を想定した脆弱性評価レポート、およびそれに基づく防衛シミュレーション（レッドチーミング）だ。英国の社会システムを短期間で破壊するための最善手を研究することで、防諜のクリティカルポイントを洗い出し、その防御策を講じる。これが「不安定化戦略」の本来の目的だった。<a class="fn-ref" id="fnref-1" href="#fn-1" role="doc-noteref">[1]</a></p>
<p>だが、テロリストたちはこれを逆手に取った。本来、国外からの脅威を排除し、国内の保全を任とするMI5は自身の策によって急襲される。あろうことか、MI5副長官 ダイアナ・タヴァナーは自らの立身出世のために、ポピュリスト政治家は自身の政治的プレゼンスを拡大するために、テロを利用する。英国は外部からの攻撃ではなく、テロルによって内側からひび割れ、支配階級の利己主義によって機能不全に陥る。</p>
<p>ウクライナ侵攻によって、近年いっそう現実味を帯びたハイブリッド戦争やグレーゾーン事態において、国家を最もクリティカルに破壊するのは外部からの侵攻ではなく、過剰に肥大化した内部の治安維持機構（および行政アクター）が引き起こす内破である。<a class="fn-ref" id="fnref-2" href="#fn-2" role="doc-noteref">[2]</a>そして劇中でジャクソン・ラムが指摘するように、「（MI5本部の連中は）自分たちが書いたシナリオで攻撃されていることにすら気づいていない」。これは官僚機構が自分たちで作った戦術に報復されるという、本作特有のブラックジョークでもある。</p>
<p>本シーズンの中核を成す架空の演習用シナリオ「不安定化戦略」は、現代の高度に複雑化した社会システムの脆弱性を浮き彫りにする。「何が起きたのか」ではなく「誰も何が起きているのかを正確に把握できない」というパニック状態に焦点を当てる本作のドラマツルギーは、ユーリ・ベズメノフの理論を現代版にアップデートしたと言えるだろう。<a class="fn-ref" id="fnref-3" href="#fn-3" role="doc-noteref">[3]</a></p>
<p>交通麻痺やネット上での噂など、わずかな一押しで都市機能が連鎖的に機能不全に陥る様子は、現代の先進諸国が抱える国内の脆弱性を象徴する。それは各国で「分断」が加速する今日の世界情勢そのものである。本シーズンが参照する原作本、シリーズ第5巻が英国で発売されたのは2018年（英国内がブレグジットで二分した2016年の直後）だった。2026年になった今も「分断」は世界を覆い尽くし、留まる気配はない。10年前に出版された小説の映像化作品が、今なお差し迫った危機感を描くことができるのは、この10年間、各国内部の分断と対立が継続している証でもある。</p>
<p>だが、原作小説とドラマ版には決定的な乖離がある。それがテロリストの設定変更だ。ミック・ヘロンの原作小説 第5巻目『London Rules』（未邦訳）では、テロリストたちはMI5のマニュアルを機械的に遂行するだけの、思想を持たない虚無的な傭兵集団として描かれている。対してドラマ版では、彼らを「リビアの反政府組織」に翻案し、明確な政治的動機を付与した。原作小説が描こうとしたテロリズムとは動機なき破壊だった。それは、イデオロギーではなくプラグマティックな関係で結ばれた、Uber Eatsや闇バイトのようなギグ・エコノミー的な犯罪組織であり、効率性と換金性の奴隷、つまり情報社会に生きる労働者階級の姿だった。一方、ドラマ版が描くテロリズムは「英国外交の過去の清算書」だ。</p>
<p>2011年、隣国チュニジアから始まったアラブの春の民主化運動はリビアに波及し、当時の英国キャメロン政権は市民保護というお題目を掲げてNATO軍による軍事介入を主導した。<a class="fn-ref" id="fnref-4" href="#fn-4" role="doc-noteref">[4]</a></p>
<p>地上部隊なし（no boots on the ground）と公言しておきながら、実際にはSAS（特殊空挺部隊）やMI6を現地に投入し、反政府勢力の支援活動を行い、その結果、カダフィ政権は崩壊。秩序を失ったリビア国内には武装組織が割拠し、またたく間に内戦状態に突入した。英国はリビア市民の保護を理由に、自ら音頭を取ってカダフィ政権を打倒した。だが、アラブの春が起きる2011年以前、英国とリビアは蜜月の関係だった。英国はCIAと協働してリビアの反体制活動家を誘拐し、カダフィ政権に引き渡し、英国の諜報機関MI5/MI6はカダフィお抱えの諜報機関と情報を共有することで、英国内のリビア反体制派の監視・弾圧に協力していた。<a class="fn-ref" id="fnref-5" href="#fn-5" role="doc-noteref">[5]</a>英国は、リビアの反体制派を弾圧するために協力しておきながら、2011年を境に手のひらを返し、またたく間にリビアを破壊した。</p>
<p>この英国の二重基準（ダブルスタンダード）に対する憎悪こそ、ドラマ版で描かれるテロリストたちの明確な動機である。これは、アメリカの国際政治学者チャルマーズ・ジョンソンが提唱した「ブローバック（Blowback）」──帝国主義的介入が予期せぬ反動として本国に跳ね返る現象──の典型でもある。原作小説が描こうとした「理由なき悪意のシステム化」というカフカ的な恐怖は、ドラマ版では「清算するべき英国外交の清算書」として再解釈される。</p>
<p>この設定変更によって歴史的な文脈を強化したことで、本シーズンはブレグジット以降の英国が直面する孤立と混乱を、過去の英国外交がもたらす宿命（カルマ）として帰結させることに成功している。現代の英国が置かれた地政学的な状況を照射することで、物語は単なるエンターテイメントの枠を踏み越えて、“スパイもの”というジャンルを再定義している。MI5が考えた“最強の攻略本”（不安定化戦略）によって自家中毒に陥り、日和見主義な外交政策で情勢を混乱させたリビアに復讐される──そう、『窓際のスパイ』シーズン5は、従前のシーズンと比較しても極めて自己批判的なのだ。本シーズンの注意力は諸外国ではなく英国自身に向けられており、その眼差しは、これまで英国が歩んできた歴史を見つめている。</p>
<p>冷戦時代、西側のスパイたちが暗躍した黄金時代。西側のスパイたちがモスクワで活動する際に従った経験則は現在「モスクワ・ルール（Moscow Rules）」の名で知られている。<a class="fn-ref" id="fnref-6" href="#fn-6" role="doc-noteref">[6]</a></p>
<p class="noind">「偶然は存在しない」「誰も信じるな」「パターンを探せ」──歴史に埋もれた数多のスパイたちが経験から抽出した教訓（ルール）。それは英国の眼差しが積極的に国外へ向けられていた時代の遺産でもある。シーズン5で自己批判的に描かれる英国の眼差しは、そんな遺産すら眼中にない。外側に向けられた眼差しが逆転し、自己批判的に内側へ向けられた時、そこに浮かび上がってくるのは英国の内在論理『ロンドン・ルール（London Rules）』である。</p>
<p>原作小説の副題に冠された『ロンドン・ルール（London Rules）』は、著者ミック・ヘロンが「モスクワ・ルール」に対置する形で創作した架空のスパイ用語だ。小説およびドラマ内で「ロンドン・ルール」は次のように定義されている。「自分の尻を拭え（Cover your arse）」「他人の失敗を利用しろ」「責任を他人に押し付けろ」「生き残ることが全てだ」──これは諜報活動（スパイクラフト）の技術的な教訓ではない。MI5という官僚主義的な組織における出世と保身のための処世術を指す皮肉である。<a class="fn-ref" id="fnref-7" href="#fn-7" role="doc-noteref">[7]</a></p>
<p>だが、作中でMI5副長官 ダイアナ・タヴァナーが体現するこの不文律──「責任転嫁」「他者の失敗の利用」「保身の絶対化」──は、単なるホワイトホールの官僚的な処世術を超えた行動原理として描かれている。「ロンドン・ルール」はテムズ・ハウス（MI5本部）からダウニング街10番地（英首相官邸）に至るまで、ミクロな政治的力学からマクロな地政学に至るまで、フラクタル（自己相似的）に適用されている。</p>
<p>かつて英国政府は、石油利権のためにカダフィ政権の人権弾圧を黙認・協力し（保身）、情勢が変化すれば「人道支援」を名目に攻撃し（他者の利用）、崩壊後の内戦責任を放棄した（責任転嫁）。</p>
<p>シーズン5で描かれるリビアのテロリストを生み出したのは、まさに英国外交が国際レベルで実行した「ロンドン・ルール」そのものである。そして、そのルールは無能なMI5長官を失脚させるためにテロを静観するタヴァナーの言動でもあり、自身の政治的プレゼンスを強化するためにテロを利用するデニス・ギンボールの振る舞いでもある。</p>
<p>こうして国際政治から組織政治、さらには市長選に至るまで、あらゆるレイヤーに「ロンドン・ルール」が適用されることで英国というシステムは維持される。システムを維持するための「ロンドン・ルール」は、やがてシステム（体制）を維持することが自己目的化し、そのためにシステムのマニュアル（不安定化戦略）によって内破する。MI5内部の足の引っ張り合いとロンドン市街の爆破テロは、同じ「無責任の体系」が生み出した鏡像と言えるだろう。</p>
<p>そして、ジャクソン・ラム率いる落伍者たち（スローホース）だけが、ロンドン・ルール（保身の論理）から逸脱しているがゆえに、不文律によって機能不全に陥った英国の危機を救うことができるのだ。もともと、MI5の保身と利己主義、つまり組織内の『ロンドン・ルール』が異端児を排斥し、スローホース達を生み出した。</p>
<p>ロンドン・ルールという官僚主義的な規範によって報復を受け、自家中毒に陥った英国政府とMI5は、同じルールから生まれたスローホースという徒花によって救われるのだ。</p>
<p>卵が先か、鶏が先か──英国を維持するためにはロンドン・ルールが必要であり、ロンドン・ルールが堅固ゆえに体制は維持される。その結果、体制は内側からの攻撃への耐久性を失い、ロンドン・ルールによって産み落とされた鬼子がシステムを正常化する……「ロンドン・ルール」の無限反復。この不可解で入り組んだ構図こそ、今の英国の自画像ではないだろうか。</p>

<section class="footnotes" role="doc-endnotes" aria-label="注釈">
<h2 class="footnotes-title">注釈</h2>
<ol class="fn-list">
<li id="fn-1">実際、冷戦期のMI5には対転覆活動（Counter-Subversion）を専門とするF部門が存在していた。ソ連の情報機関は偽情報やフロント組織を利用したアクティブ・メジャーズ（影響力工作）を主要な武器としており、F部門の分析官たちはソ連の手法を詳細に研究することで防御策をリバースエンジニアリングしていた。シーズン5の中核を成す「不安定化戦略」のモデルは、元KGB工作員ユーリ・ベズメノフが暴露した転覆工作ドクトリン（メディアを通じた情報操作による道徳的退廃から政権内破へ至るプロセス）をモデルにしていると思われる。 <a href="#fnref-1" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-2">2026年1月、ベネズエラ India Today Web Desk，From Mar-a-Lago to Caracas: Trump posts video of Venezuela strike，India Today，2026-01-04， <a href="https://www.indiatoday.in/world/story/us-venezuela-airstrike-trump-nicolas-maduro-40-killed-2846197-2026-01-04">https://www.indiatoday.in/world/story/us-venezuela-airstrike-trump-nicolas-maduro-40-killed-2846197-2026-01-04</a> （参照 2026-01-12） <a href="#fnref-2" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-3">製作者らのインタビューで「ベズメノフの理論を参照した」という発言は確認できなかったが、原作小説におけるテロリストの描写（特定の政治信条が目的ではなく、国内の対立そのものの激化を目的とする）は、ベズメノフが警告した「真の目的はイデオロギーの勝利ではなく、社会の自己防衛機能の破壊である」という主張と一致する。また、「不安定化戦略」はベズメノフが提唱したソ連の転覆工作ドクトリン全てに類似している訳ではない。ベズメノフが暴露したドクトリンのうち、「不安定化戦略」と最も近しいのは「アクティブ・メジャーズ（Active Measures）」の第2・第3段階（不安定化・危機）だけである。 <a href="#fnref-3" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-4">&quot;The second was to protect civilians from attack by the Gaddafi regime... We therefore choose our targets to stop attacks on civilians and to implement the No Fly Zone.&quot;<br> （第二の目的は、カダフィ政権による攻撃から市民を保護することであった……。したがって、我々は市民への攻撃を阻止し、飛行禁止空域を実施するために標的を選択する。）<br>&quot;...the UK government &#39;failed to identify that the threat to civilians was overstated and that the rebels included a significant Islamist element.&#39;&quot;<br>（……英国政府は「市民への脅威が誇張されていたこと、および反乱軍にかなりのイスラム主義要素が含まれていたことを特定するのに失敗した」）<br>リビアに関する首相の下院声明<br>Prime Minister&#39;s Office, 10 Downing Street．“PM statement to the House on Libya”．<a href="http://gov.uk/">GOV.UK</a>．2011-03-21， <a href="https://www.gov.uk/government/speeches/pm-statement-to-the-house-on-libya">https://www.gov.uk/government/speeches/pm-statement-to-the-house-on-libya</a>，（参照 2026-01-12）． <a href="#fnref-4" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-5">国際的な人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによる報告書<br> &quot;The UK&#39;s MI6 also apparently gave the Gaddafi regime details of dissidents... The documents show a high level of cooperation between the United States, the United Kingdom, and the government of former Libyan leader Muammar Gaddafi on the transfer of Gaddafi’s opponents into Libyan custody.&quot;<br>（英国のMI6もまた、カダフィ政権に反体制派の詳細を提供していた模様である……文書は、カダフィの敵対者をリビアの拘束下に移送することに関して、米国、英国、そして元リビア指導者ムアンマル・カダフィの政府との間に高いレベルの協力があったことを示している。）Human Rights Watch．“Delivered Into Enemy Hands”．Human Rights Watch．2012-09-04，<a href="https://www.hrw.org/report/2012/09/05/delivered-enemy-hands/us-led-abuse-and-rendition-opponents-gaddafis-libya">https://www.hrw.org/report/2012/09/05/delivered-enemy-hands/us-led-abuse-and-rendition-opponents-gaddafis-libya</a>，（参照 2026-01-12） <a href="#fnref-5" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-6">&quot;The &#39;Moscow Rules&#39; became shorthand to describe the tradecraft needed to operate secretly in the world&#39;s most dangerous city.&quot;<br> （「モスクワ・ルール」という言葉は、世界で最も危険な都市で秘密裏に活動するために必要なスパイ技術（スパイクラフト）を表す略語となった。）&quot;The rules are associated with Moscow because the city developed a reputation as being a particularly harsh locale for clandestine operatives who were exposed.&quot;<br> （このルールがモスクワと結びついているのは、露見した秘密工作員にとって同市が特に過酷な場所であるという評判があったためである。）SPYSCAPE．“Moscow Rules: A Crash Course in Espionage for Fledgling Spies”．SPYSCAPE．2019-01-20，<a href="https://spyscape.com/article/moscow-rules-a-crash-course-in-espionage-for-fledgling-spies">https://spyscape.com/article/moscow-rules-a-crash-course-in-espionage-for-fledgling-spies</a>，（参照 2026-01-12）．該当箇所: 記事冒頭の &quot;The &#39;Moscow Rules&#39; became shorthand to describe...&quot; の部分。Webサイト<br>Wikipedia contributors．“The Moscow rules”．Wikipedia, The Free Encyclopedia．2004-08-21，<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/The_Moscow_rules">https://en.wikipedia.org/wiki/The_Moscow_rules</a>，（参照 2026-01-12）． <a href="#fnref-6" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-7">&quot;If Moscow rules meant watch your back, London rules meant cover your arse. Moscow rules had been written on the streets, but London rules were devised in the corridors of Westminster, and the short version read: someone always pays. Make sure it isn’t you.&quot;<br> （モスクワ・ルールが「背後を警戒しろ」を意味するなら、ロンドン・ルールは「自分の尻を拭え」を意味する。モスクワ・ルールは路上で書かれたが、ロンドン・ルールはウェストミンスターの回廊で考案された。その短縮版はこうだ。「誰かが必ず代償を払う。それが自分にならないようにしろ」）<br> Goodreads．“Slow Horses Quotes”．Goodreads． <a href="https://www.goodreads.com/work/quotes/11252875-slow-horses">https://www.goodreads.com/work/quotes/11252875-slow-horses</a> ，（参照 2026-01-12）． <a href="#fnref-7" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>ザ・ボーイズ シーズン5</title>
    <link>https://indi-visual11.com/the-boys-s5/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-the-boys-s5</guid>
    <pubDate>Sun, 24 May 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>ドラマ</category>
    <description>ホームランダーは神ではない</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>わたしは神だ。<br><span class="ind"></span>こんなことを真顔で言って悪役として成立してしまうキャラクターが、これまで何人いただろうか。<br><span class="ind"></span>ホームランダーの話である。</p>
<p>Amazonプライムビデオの看板ドラマ『ザ・ボーイズ』がシーズン5をもって完結した。シーズンを重ねるごとにホームランダーはトランプ化し、現実の世界ではトランプがホームランダー化していった。現実とフィクションが互いを参照し合いながらフィナーレを迎えた、卦体な海外ドラマだと思う。</p>
<p>ロッテントマトやImdbなど、各レビューサイトでは竹を割ったように評が割れている。幹竹割りもびっくりなほど、見事なまでに視聴者と批評家の評価が乖離している。ロッテントマトでポップコーンメーターが低くトマトメーターが高い作品は、アート系映画だと相場は決まっている。だが、『ザ・ボーイズ』にアート系映画の「ア」の字もない。キミコをしてポルノワードを連発させるお下劣コメディ・ドラマである。アートもへったくれもあったもんじゃない。</p>
<p>おそらく大多数の視聴者は、広げすぎたプロットを回収しきれずに終わった、尻すぼみな幕切れに対して不満を抱いているのだろう。一方、スノッブでディレッタントな海外の批評家は、いつしか比喩であることを止め、完全に現実の米国政治の鏡像と化したホームランダー＝トランプをめぐる暴走っぷりに溜飲を下げ、悦に入っていると思われる。いずれにせよ、かなり投げやりな終幕だったことは否定できない。</p>
<p>シーズン1〜3にかけて、トランプの戯画化は暗喩として機能していた。それがシーズン4以降、「トランプ的なもの」はいつしか「トランプそのもの」に前面化し、かつて比喩だったものは現実を直接参照する記号に挿げ替わった。おそらく、このあたりの作風の転換にはショーランナーのエリック・クリプキがシーズン3以降、自ら脚本を書いていないことが関係していると思うのだけれど、真相はわからない。</p>
<p>最終シーズンを観ている間、僕は絶えず既視感に襲われていた。YoutubeチャンネルのPIVOTやプライムニュースで観た／聞いたような出来事が、ホームランダーの周囲で現出していたことに。SNLのコールドオープンのスケッチにおいて、ジェームズ・オースティン・ジョンソン扮するトランプの言動とホームランダーのそれがぞっとするほど近似していることに。</p>
<p>ホームランダーが狂えば狂うほど、現実で観た／聞いた言説を記号として画面の中で見つければ見つけるほど、自分が今ドラマを観ているのかニュースを観ているのか、わからなくなった。それほどまでに、『ザ・ボーイズ』シーズン5は現実の米国内政情をそっくりそのまま投影している。</p>
<p>正直に言えば、僕はシーズン4から最終話直前に至るまで、『ザ・ボーイズ』を面白いとは思えなかった。シーズン1〜3とシーズン4以降では、両者の間に劃然たる溝が横たわっている。（まぁ、まったく期待していなかったシーズン5の最終話が殊のほか良かったので、終わりよければ…という気もするけれど）</p>
<p class="noind">『ザ・ボーイズ』が陥った変化は何だったんだろう。</p>
<p>相手に反論を許さない状況で、批判する対象を一方的に嘲笑し、相手を見下すことで相対的に自分のほうが上位に立ったように錯覚する。根本的な問題は何ひとつ解決も議論もされていないのに、まるで自分が偉くなったかのように錯覚し、安堵する。これって何かに似てないか。SNSじゃねぇか。</p>
<p>かつて押井守は自身の劇場デビュー作『うる星やつら オンリー・ユー』を評して「でっかいテレビ」だと言った。いうなれば、『ザ・ボーイズ』シーズン4〜5は「でっかいSNS」だ。SNSで日夜行われている不毛な言語ゲームの拡張版。批判の対象と、それを批判する主体が同じ足場に寄りかかっている状況。</p>
<p>これは何も『ザ・ボーイズ』に限った話でもない。アレックス・ガーランドの『シビル・ウォー』、ポン・ジュノの『ミッキー17』、アリ・アスターの『エディントン』、ランティモスの『ブゴニア』…近年のハリウッド映像作品に共通する傾向でもある。まるで米国の映像作家たちがいっせいに罹患したかのように、同じ症状を呈している。僕は最近この症状に名前をつけることにした──「映像産業のSNS化」だ。</p>
<h3 id="sec-1">映像産業のSNS化という症状</h3>
<p>シーズン5の物語は、こんにちのSNS空間そのものを主題化している。平然とした顔で自らを「神だ」とのたまうホームランダーは「自由のための自由法」なる法律を議会で可決・施行し、スターライト派を逮捕・収容所送りにする。ヴォート社の会議室でスターライト派の検挙状況を説明するファイアークラッカーの背後には米国の地図が示され、スターライト支持者の位置が輝点(プリップ)によってマッピングされている。輝点が蝟集している地域はニューイングランド地方と西海岸、つまり民主党支持者が優勢な都市部だ。ホームランダーとホームランダーが比喩ではなく等号記号(＝)で接続可能なように、スターライトと民主党もまた相互に入れ替え可能な対象として描かれる。</p>
<p>ファイアークラッカーがアンカーを務めるニュース番組はFOXニュースそのものだし、ホームランダーが大統領執務室(オーバルオフィス)を我が物顔で闊歩する光景は、トランプ大統領就任直後、子供を連れて彼の「仕事部屋」を訪れたイーロン・マスクの焼き直しだ。</p>
<p>現実の政治情勢を皮肉って、比喩を使うことで迂回するのではなく、直接それだと指さすことで比喩であることすら放棄する、居直った態度。これは構わない。合衆国憲法修正第一条で保証されているように、米国には表現の自由があるのだから。問題はここから先にある。</p>
<p>シーズン5はSNS的なもの・トランプ的なものを批判しようと肩肘張りすぎた結果、批判する主体つまり自分自身が批判対象と同じ振る舞いをしていることが問題なのだ。</p>
<p>たとえば、疎遠だった父親とスターライトが再会する場面。スターライトの父親は再婚し、再婚相手との間に息子がいる。彼の家の前庭にはトランプ支持ならぬホームランダー支持を示す旗が等間隔で並び、彼の息子はTikTokでホームランダーを称揚するショート動画を死んだ魚のような目で眺め続け、その動画の内容を鵜呑みにしてスターライトを否定する。</p>
<p>ホームランダーとトランプがニアリーイコール(≒)で結ばれた比喩ではなく、イコール(＝)で結ばれた記号であるならば、ここで描かれている状況を読み解くと、ホームランダー支持者＝トランプ支持者＝TikTokが情報源のリテラシーが低く、感情的で、オツムの弱い奴、ということになり、それを取り繕うわけでもなく平然と描くことは、SNSでトランプ支持者の投稿を引用して「LOL（笑）」とバカにするのと本質的に同じことだ。</p>
<p>そうしてホームランダーをトランプそのものとして参照し、極限まで茶化し、嘲笑したバランス調整として、中盤のエピソードではセス・ローゲンをはじめとする西海岸のリムジン・リベラルたちがソルジャー・ボーイによって惨殺される。</p>
<p class="noind">「トランプをフルボッコにするだけじゃないぜ。俺たちちゃんとわかってんだぜ。トランプと違ってラブ&amp;ピースが信条だからな！」という脚本家ないし製作者の声が聞こえてきそうなほどあからさますぎるバランス調整。</p>
<p>これでケンカ両成敗だとでも…</p>
<p>セス・ローゲンと実在の俳優やコメディアンがミスター・マラソンの邸宅で雁首そろえてポーカーに興じる場面で、彼らは業界の新たなムーブメントをハッシュタグ運動として展開しようと画策しあう。その直後、ホームランダーを挑発し、子を侮辱された父親ソルジャー・ボーイの逆鱗に触れて、彼らは肉片と化すことになる。</p>
<p>SNSでミームを武器化することでMeTooに続くムーブメントを仕掛けようとする西海岸の映像産業の従事者が、トランプの家族＝ソルジャー・ボーイに虐殺される。製作者による自虐ネタというか、業界人によるハリウッド業界批判というか…いずれにせよ、ここで製作者がやり玉に挙げているハッシュタグ運動やら武器化されたミームという対象が、そっくりそのまま『ザ・ボーイズ』シーズン5それ自体に当てはまることが問題なのだ。</p>
<p>製作者がこの自家撞着に意識的なのか無意識なのかはさておき、この場面で自己批判として機能するはずのミームやハッシュタグは、『ザ・ボーイズ』シーズン5をめぐる現実のSNS言論で駆使されている技法にほかならない。最新話が配信されてから数時間後にはホームランダーの場面がミーム化されてXのタイムラインを駆け巡り、シーズン全体が巨大なミームの塊として、ハッシュタグとして消費されたのが『ザ・ボーイズ』シーズン5ではなかったか。自己批判を試みたその対象が、そっくりそのまま自分自身に跳ね返ってくるというトートロジー。</p>
<p>シーズン1〜3まで現実の政情は「迂回」して扱われていた。シーズン4・5のように、加工されず生のまま画面のなかで提示される「記号」としてではなく、現実を迂回するための「比喩」として、前1〜3シーズンでは政治情勢が援用されていた。いつの間にか、その迂回路が完全に消えてしまった。風刺は対象との距離を必要とする。対象に直接言及することなく、あえて迂回するからこそ、風刺は風刺として機能する。対象との距離がゼロになった時、風刺は単なるデーターベースの参照になる。</p>
<p>シーズン4・5で行われているのは現実の米国政情というデーターベースを参照し、それをそのまま無加工で提示することだ。何の虚飾も誇張もない、ありのままの現実を記号化して作品のなかに散りばめること。まるで「ウォーリーを探せ」のように、画面の中で見つけてもらうことを前提とした、隠す気もない記号を視聴者に発見させ、何かがわかったかのように錯覚させ、気持ちよくさせること。正しい映像作品の消費が何なのか、浅学な僕にはわかりませんが、これが正常ではないことは火を見るより明らかでしょう。</p>
<h3 id="sec-2">信仰の対象が挿げ替わるとき</h3>
<p>シーズン5全体を貫くモチーフとして宗教がある。<br><span class="ind"></span>第5話、ファイアークラッカーは幼少期から大切にしてきたイエスのフィギュアをゴミ箱に投げ捨てる。自分にとっての神とは何なのか。幼少期、かつて敬虔なクリスチャンだったファイアークラッカーは、神を僭称するホームランダーを巡って自身の信仰心を大きく揺さぶられる。ホームランダーが神だとするならば、イエスとホームランダーどちらが「より上位」の神なのか。イエスに対する信仰心とホームランダーに対して抱く恐れを含んだ盲従は同じなのか。幼少期に抱いていた信仰心と今の自分が抱いている信仰心は、どう違うのか。ファイアークラッカーの心は揺れ動く。</p>
<p>彼女はイエスのフィギュアを固く握りしめ、それをゴミ箱に投げ捨てようとして逡巡する。長い逡巡を経て、彼女はついに思い切ったようにイエスをゴミ箱に放擲する。その直後、彼女はイエスに代わる新たな神と見定めたホームランダーの手によって、あっけなく事切れる。</p>
<p>ここでの核心は、ファイアークラッカーの信仰心の中身だ。彼女が求めていたのは敬虔な信仰そのものではなく、自身の拠り所たりうる何かだった。不安を拭い去り、無窮の安心感を与えてくれる存在──希望。幼少期の彼女にとってそれはイエスであり、長じて能力者となった彼女にとってはホームランダーがそれだった。世俗化が進んだアメリカで、希望を失った人々が拠り所として信仰に目覚める…奇しくも同時期に配信されているHBOドラマ『Euphoria/ユーフォリア』シーズン3もまた「信仰」を基調に据えている。「信仰」が2026年を俯瞰する1つのキーワードになりつつあるように思う。</p>
<h3 id="sec-3">スタン・エドガーの復帰と資本主義リアリズム</h3>
<p>ヴォート社の元CEOスタン・エドガーは葉巻をくゆらせながらMMに向かって不穏な言葉を投げかける。</p>
<p class="noind">「ホームランダーが、能力者がいなくなっても、ヴォートは存続する」</p>
<p>そして、自らその言葉を証明するかのように、最終話のエピローグで彼はヴォート社CEOの座に復帰を果たす。ホームランダーやソルジャー・ボーイといった個々の能力者は交換可能な存在に過ぎない。たとえ目から殺人ビームを照射する「力(power)」を持った能力者とて、ヴォートが企業体であり、利益追求組織である以上、資本主義の束縛からは自由になれない。その意味において、能力者たちはヴォートという企業体の所有物であり、その企業もまた資本主義という巨大なシステムに所有されている。つまり、能力者は「力(power)」を持つことはできるが、まったき「権力(power)」は手にすることができない。たとえ能力者が滅びようとも、ヴォート社は利益を追求し続け、能力者にかわる「商品」を開発し、資本主義は存続する。</p>
<p>かつてマルクスは『資本論』のなかで「資本家とは人格化された資本であり、意志と意識を与えられた資本である」と書いた。スタン・エドガーが語るテーゼもこれに近い。能力を人格化したホームランダーが滅びても、資本を人格化したスタン・エドガーは別の人格に乗り代わって延命する。</p>
<p>エピローグの場面でスタン・エドガーがCEOの座に返り咲いた時、それまで散々ホームランダーによる暴政を見せつけられた僕たちは「ようやく大人が戻ってきた」と安堵してしまう。だが、この幕引きもじつに憎たらしい展開である。第一期トランプ政権後、バイデンが大統領に就任したとき、リベラル系のメディアは異口同音に「大人が帰ってきた。安心だ」と口にしたものだった。この一致を偶然と片付けるには、僕たちはあまりにも多くの「トランプそのもの」を観せられ過ぎた。現実の政情をデーターベース的に参照する態度を隠そうともしないシーズン5の最終話、その幕引きでバイデン就任時と同じカタルシスを用意することで、いや、そうして現実の政治をトレースすることでしか、製作者たちはSNS化した物語を終わらせることができなかったのだろう。</p>
<h3 id="sec-4">比喩から記号へ──物語的想像力の死</h3>
<p>シーズン1から3にかけて、『ザ・ボーイズ』が扱う政治は比喩（アナロジー）だった。ストームフロントはナチという記号を経由することでトランプ現象を扱う、ワンクッション置いた「比喩」として機能していた。シーズン4・5ではこの緩衝材が消失し、1月6日議会議事堂襲撃事件、プロジェクト2025、福音派、テクノ・リバタリアン──こうした現実の記号を無加工のまま記号として採用した。</p>
<p>現実の政情というデーターベースを記号的に消費する。東浩紀さんが『動物化するポストモダン』提唱した「データーベース消費」が、ここでは現実政治の消費として再演される。僕たち視聴者は、もはや物語ではなく、「これマスクじゃね？」「これトランプのあれじゃん！ニュースで見たやつ」という記号探しのゲームに没頭する。批判する対象である現実の米国政治が、作中の状況を追い越し、追い越された虚構のほうが今度は現実政治を参照する。まるでウロボロスだ。</p>
<p>おそらくMCUというスーパーヒーロー映画のフランチャイズを、スーパーヒーロー映画の形式を使って、メタ的に批判するという『ザ・ボーイズ』本来の持ち味は、シーズン2第8話──キミコ、スターライト、クイーン・メイヴがストームフロントを袋叩きにしたあの瞬間を境に失われてしまったのだ。エンドゲーム以降MCUが下火になるにつれて、ヒーロー映画フランチャイズの形式を援用してヒーローもの、そのものを批判するという当初の戦略は機能不全に陥り、当初の戦略目標を喪失した『ザ・ボーイズ』は、政治的な記号操作のゲームへと新たに目標を定め直すほかなかったのだ。</p>
<p>映像産業のSNS化──それはおそらく本作だけの病理ではない。現実の政情が混迷を極めるにつれて、今後も「でっかいSNS」としての映像作品は生まれ続けるだろう。</p>
<p>フィクションの中でまで現実の政治を、現実の混乱の続きを見せられること。</p>
<p>まるでつけっぱなしのテレビから流れるニュースに影響されてしまうように、たまたま開いたLINEニュースの興味はないけれど見出しを読んでしまったニュースに集中力を奪われるように、望まないノイズに晒されることへの疲労感。スマホを触っていてしばしば感じるこの種の疲労感と同じものを、僕は『ザ・ボーイズ』シーズン5を観ている時に感じた。</p>
<p>政治や世界に無関心を決め込むのは無責任だとは思う。けれど、それを映像作品で、虚構のなかで現実のシミュラクラを再演する必要性はあるんだろうか。</p>
<p>そういう役割は本の方が向いているような気がするのは、僕だけですか…<br><span class="ind"></span>ちくま新書でよくないですか…</p>
]]></content:encoded>
  </item>
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    <title>『閃光のハサウェイ キルケーの魔女』</title>
    <link>https://indi-visual11.com/hathaway-circe/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-hathaway-circe</guid>
    <pubDate>Sun, 24 May 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    <description>大義なきテロル</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>COVID-19のパンデミックと相前後して公開された劇場アニメーション『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』。公開されるや新旧ファンから絶賛を浴び、日本中のガノタが続編への期待に胸を膨らませたガンダム映画。その後、公式から続編のアナウンスは一向になされず、ネット上ではコロナ禍の影響で海外ロケが遅延しているだの、クオリティーを高めるために制作期間に余裕を持たせているだの、様々な憶測が飛び交った。一時は頓挫したかと思われた『閃光のハサウェイ』はしかし、前作から5年の歳月を経て続編公開に漕ぎ着けた。</p>
<p>満を持して公開された第2作目、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』</p>
<p>公開初日に観てきた。すでに3回、劇場で観てしまった……</p>
<p>5年間で漸進的に高まり続けた期待値を軽々と超えてくる素晴らしさ。</p>
<p>映画だ。アニメーション映画である以前に「映画」だった。</p>
<p>言葉から溢れた落ちた言外のニュアンスをキャラクターの細やかな芝居によって表現するという正統な劇映画の演出手法。リアル等身のキャラクターをリアルなパースで描かれた背景に配置し、カメラレンズを意識したレイアウトで切り取る映像設計。尋常ならざる描き込みがされたリッチな作画を陰影によって容赦なく塗りつぶしてしまう、その贅沢な演出的選択。</p>
<p>作品の随所に散りばめられた演出の技巧。それが集積することで立ち上がる「映画らしさ」。原作小説の富野エッセンスはそのままに、細やかな芝居を積み重ねることで「劇映画」たらんとする本作の態度は、1作目の時からストイックさを増している。</p>
<p>思い返せば、『閃光のハサウェイ』は1作目からすでにアニメの範疇に留まらず、「劇場映画」であることに意識的だった。押井守が言うところの「でっかいテレビ」ではなく、劇場のスクリーンで上映されることを前提とした、大画面で視聴されることを前提とした「劇場アニメーション映画」。</p>
<p>1作目でモビルスーツが市街地を蹂躙する時、そこで強調されるのは逃げ惑う市民と巨大な二足歩行兵器としてのモビルスーツ、両者のスケールの対比だった。巨大な兵器を前にして、人間に為す術はない。ひたすら圧倒され、蹂躙され、逃げ惑うよりほかにない。ここで人間の無力感が際立つのは、劇場のスクリーンに映し出されたモビルスーツの巨大さと僕たち観客の矮小さが呼応するからだ。</p>
<p class="noind">『キルケーの魔女』では、1作目で開陳したテクニカルな演出をさらに洗練させ、深化させている。演出の面では間違いなく1作目と地続きなのだけれど、2作目には前作と決定的な差異がある。それは原作小説からの離脱だ。</p>
<p>原作の改変ではなく「離脱」と書いたのには理由がある。</p>
<p>富野由悠季が書いた小説のなかでも最高傑作との呼び声も高い『閃光のハサウェイ』を映像化するためには、劇映画として映像化するためには、いちど富野由悠季から「離脱」する必要があった。原作を上書きするという意味で「改変」するのではなく、富野節120％で構成された原作小説に新たな解釈を施し、技巧的な演出を駆使することで、富野由悠季という巨大な父性から、一度「離脱」する必要があった。</p>
<p>終盤で展開される『逆シャア』のリメイクシーンは、単なるファンサービスではない。</p>
<p>劇場映画版『閃光のハサウェイ』3部作が、富野由悠季という巨大な父性から「離脱」を試みた、その結果なのだ。</p>
<h3 id="sec-1">三部作という放物線</h3>
<p>1作目は原作小説に忠実だった。忠実すぎると言っていいほど、原作小説をほぼ完璧に模倣し、映像化することに心血を注いでいた。まるで演出指示書のように小説を読み込み、地の文をト書きに読み替え、原作小説を忠実に模倣することで、1作目は「古いけど新しい」ガンダムとして見事なまでに完成されていた。</p>
<p>あの律儀なまでの原作への忠実さはどこへやら、『キルケーの魔女』は開巻から原作小説を「離脱」している。原作小説では組織内の配置変えによって自然にフェードアウトしていたケリアは、映画版ではハサウェイへの当て付けとして剃髪し、中盤には新海誠よろしくMV演出が施され、彼女を失ったハサウェイの喪失感が強調される。</p>
<p>上映が終わって映画館を後にしながら、僕はぼんやりと考えていた。原作小説への忠実さで構成された1作目から、やおら距離を置こうとするこのムーブは何なのかしら、と。</p>
<p>それは富野由悠季という巨大な父性からの「離脱」であり、ハサウェイの破滅に向かう準備段階、つまり「跳躍」なのではないか。映画版『閃光のハサウェイ』3部作は、放物線の軌道に対応しているのではないか。原作小説に忠を誓った1作目は、飛翔するために大地を踏みしめ、力を溜め込む段階。次ぐ2作目は、溜め込んだ力を解放し、空へ跳躍する段階。そして来る3作目は、重力に絡め取られ、落下する段階──破局。</p>
<p>振り返ってみれば、1作目があれほどまでに原作小説を忠実になぞっていたのは、模倣することが目的だったからではない。高く跳躍するために、重心を下げて膝を曲げ、ぐっと力を溜め込む予備動作だった。原作小説という大地を足蹴にすることで、大きく跳躍するための準備運動。それが1作目の律儀なまでの「忠実さ」だった。</p>
<p>2作目で原作からの変更点が一気に増えたのは、放物線を描いて跳躍するための推進力が必要だったからだ。ケリアの剃髪、量産型νガンガムの投入、『逆シャア』のリメイク映像……いずれも原作小説には存在しない。（原作小説第2巻の最終決戦にはνガンダムはおろか、エレン・エイムすら登場しない。ケッサリアとグスタフ・カール数機がクスィーガンダムに翻弄される、あっけらかんとした幕切れで終わる）</p>
<p>エンディングテーマのGuns N&#39; Rosesの「Sweet Child o&#39; Mine」（この楽曲使用料だけでいくらかかってるんだ…）が醸し出す、『閃光のハサウェイ』らしからぬ爽快感も、放物線の頂点のイメージと一致している。高く跳べば跳ぶほど、落下した時の衝撃は大きくなる。今作でハサウェイにアムロという「父殺し」を代行させ、ギギと束の間のロマンスが成就するのは、ハッピーエンドの予兆では決してない。3作目でハサウェイが壮絶な最期を遂げるとき、その悲劇性を最大化するための残酷な助走なのだ。</p>
<h3 id="sec-2">腐敗した重力に支配された世界</h3>
<p>村瀬監督は1作目から「重力」の表現に異様なこだわりを見せてきた。頬をつたう汗、服の皺、階段をのぼる時の大腿筋の伸縮、市街地に降り注ぐモビルスーツの巨大な空薬莢。『キルケーの魔女』においても、ギギがかの悪名高い台詞を吐き捨てた後、激昂したメイスが階段を降りる場面では、彼女の動作がわざわざ1コマ打ちで作画されている。まるで理想を押し潰そうとする現実の重さを視覚化するかのように、村瀬監督は「重力」に対し、異様なこだわりを見せる。</p>
<p>地球に生まれ、地球で育ち、そして死んでいく僕たちには当たり前のことだけど、地球に暮らす以上、誰ひとり重力からは逃れられない。マフティーも例外ではない。そこに暮らす人々にアプリオリに課された呪縛という点において、地球連邦の特権階級たちが占拠する地球、そこで作用する重力とは、権力のことに他ならない。かつて米国の犯罪小説家ジェイムズ・エルロイが喝破したように、「権力が腐敗するのではなく、腐敗こそが権力」なのだ。地球連邦の腐敗＝権力という名の重力が、地球全土を覆い尽くしている。</p>
<h3 id="sec-3">テロルの私有化</h3>
<p>ハサウェイ、ギギ、ケネス…3人の主要人物は、それぞれのやり方で腐敗しきった重力圏に敗北している。ケネスは体制の腐敗を知悉したうえで、あえて従う。連邦軍という組織のなかで有能な歯車として機能することを選ぶ。この面従腹背を大人の成熟と捉えるか、妥協と捉えるかは、観る人の年齢によって異なるような気がする。ギギはパトロンのバウンデン・ウッデン伯爵に身体を明け渡すのと引き換えに、一定程度の富と自由を得ている。寄生することによって金銭と幾ばくかの自由を得る。宇宙移民時代におけるパパ活がここにある。そしてハサウェイは、自分が利用されていることにも気づかず、マフティーという役割を演じ続ける。</p>
<p>マフティーは矛盾を抱えている。全人類を地球から脱出させ、重力から解放することを標榜しながら、連邦軍の英雄ブライト・ノアの息子という血統によってハサウェイは地球の居住許可を与えられ、植物観察官候補生という身分で移動の自由を与えられ、クワック・サルバーに与えられたクスィーガンダムで自由闊達と空を駆け巡る。マフティーのテロリズムとは、安全圏から介入する特権階級の道楽に過ぎない。テロ組織マフティーの黒幕クワック・サルバーが地球連邦軍の所属である以上、ハサウェイはクワック・サルバーの政敵を排除する道具として、政治闘争に利用されているかもしれず、その可能性に無自覚な点が、ハサウェイの平凡さ（シャアやアムロとの違い）を露呈する。</p>
<p>Planets編集長、批評家の宇野常寛さんがyoutube動画の中で『キルケーの魔女』はハサウェイの実存の問題を描いている、と指摘している。シャアにもアムロにもなれない、ニュータイプにもなれない、自分が政治利用されている可能性にすら思い至らない「平凡」なハサウェイが、自身の凡庸さを受け入れられないがゆえに、悶々と悩み続ける。本作が描くのは、モラトリアムと成熟の狭間に位置するアラサーの男女が陥る、普遍的な実存の危機だ。</p>
<p>キルケーの魔女。前作でギギが説明しているとおり、薬草と呪文で男たちを獣に変える、ギリシャ神話に登場する魔女の名前だ。ギギはハサウェイから人間性を剥ぎ取り、肉欲まみれの獣に変えるのではない。彼女が剥ぎ取るのはハサウェイが装う「革命家」という薄っぺらいペルソナだ。革命の成就よりも革命家であることが自己目的化したハサウェイを本来の姿──迷える青年に引き戻す。</p>
<p>テロリストの首魁としてのハサウェイには思想がない。彼は自分の思想も、それを語る言葉も、持ち合わせていない。『逆シャア』のリメイクシーンでアムロの幻影と対峙した時、シャアの台詞をそっくりそのまま反復するのは、彼が大義など持ち合わせてはいない、空っぽのテロリストだからだ。ハサウェイにとってテロは社会変革の手段ではない。空っぽな内面が崩壊しないための精神安定剤に過ぎない。オープニングテーマ曲『Snooze（まどろみ）』が示すように、ハサウェイはテロリストの役を演じることで、現実を直視することを、「目覚める」ことをスヌーズ(遅延)させているだけなのだ。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>LUV</title>
    <link>https://indi-visual11.com/luv/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-luv</guid>
    <pubDate>Sun, 24 May 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>２１世紀のタイラー・ダーデン</description>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>中心化された管理の必要を破壊した感染活動の、全く別の様態を可能にして生産したという点で、ファンジンは音楽そのものよりも意義深いものだった。<cite class="quote-source">— マーク・フィッシャーあるいはk-punk</cite></p></blockquote>
<p class="noind">「やめて、その言葉」</p>
<p class="noind">「コンテンツ」という言葉を耳にした映画プロデューサーが脊髄反射のように叫ぶ台詞──ライアン・ゴズリング主演、２０２４年公開の映画『フォールガイ』の台詞である。商業映画に必要不可欠な存在でありながら、長らく見過ごされてきた裏方仕事：スタントマンに焦点を当てた本作は、映画製作に関わる全ての人に向けた讃美歌だった。映画製作者への敬意に満ちた本作の中で「コンテンツ」という言葉が蛇蝎視されているのは示唆に富んでいる。コンテンツと映画（作品）は全く別のものだと、本作は主張しているのだ。</p>
<p>そもそも、「コンテンツ」と「作品」の違いは何だろうか。</p>
<p>ベストセラーとなった新書『映画を早送りで観る人たち』の中で、両者の違いは視聴態度にあると論じられる。コンテンツとは刹那的に消費されるものであるのに対し、作品はじっくりと腰を据えて味わうものである。これが先の著作が提示する主張だった。</p>
<p>だが、この主張には大切な要素が欠けていると僕は思う。それはLUV（愛）だ。</p>
<p>生真面目なLOVEではなく、もっとカジュアルなLUV──「好きだ」と感じる感性と、「好きなんだ」という感情を、飾らない言葉で、自分の言葉で語ること。軽薄でフランクな「好き」という情念。映画作品とは、映画を観る行為とは、暴論すれば感情体験である。ドキドキする、泣ける、笑える、スッキリする、感動する…映画の感想とは感情の吐露であり、面白い／つまらない、という感想もまた、鑑賞した当人の感情の表層に過ぎない。コンテンツと作品の違い──それは、創作物の受け手が抱くLUV（愛）の濃淡の差である。</p>
<p>映像作品の批評において、鑑賞行為はしばしば料理に喩えられる。作品という料理をじっくり堪能する＝鑑賞する、という構図だ。同じ料理を食べて、「美味しい」という感想を抱いたとしても、その「美味しい」という一語には人それぞれ異なる体験があり、ディテールがある。同じ映画を観て、「面白い」という感想を抱いたとしても、その「面白い」の内実は人の数だけ違いがある。「美味しい」「面白い」など、抱いた感想は同じなのに、そこへ至るプロセスは人それぞれ違っていて、その属人的な差異が「批評」として機能する。</p>
<p>作品を批評する行為とは、「面白かった」という感想を「面白い」という言葉を使わずに述べることに他ならず、その作品の「面白さ」を読者に伝える過程そのものである。ある結論に至るプロセスを叙述するためには、その過程を考える必要があり、考えるためにはある程度の時間が必要となる。考えるための時間も、その結果生まれる、「面白い」という感想に至るプロセスも、サプリメント的に映像作品を「消費」するだけでは生まれてこない。そこには時間をかけて「面白さ」を検証する態度が要請される。つまり、「感想」は消費・鑑賞いずれにも生じるが、「批評」は鑑賞からしか生じ得ない。コンテンツは「消費」によって感想を生み出し、作品は「鑑賞」によって批評を生み出すのだ。</p>
<p>では、「消費」と「鑑賞」の違いとは何だろうか。それは対象を摂取する速度の違いだ。先の料理の例でたとえるなら、ゆっくり食べるか、早食いするか、という違いになる。コンテンツを「消費」する行為とは、ストリーミングサービスで配信された那由多の映像作品群をサプリメント的に、手っ取り早く、次から次へと視聴する、“速い”消費行動である。一方、映像作品を「鑑賞」する行為とは、じっくりと腰を据えて対象作品を吟味する、“遅い”消費行動である。</p>
<p>新書『映画を早送りで観る人たち』では、“速い”消費と、“遅い”鑑賞を対置することで、現代の視聴覚メディアを取り巻く状況が論じられている。だがこの速度を基準にした分類には致命的な欠落がある。映画を作るのも観るのも人間であり、映画を含めた全ての映像作品とは感情体験である、という前提が欠けているのだ。</p>
<p>コンテンツと作品をわけるのは速度ではなく温度だと思う。消費と鑑賞──それを摂取するのに要する時間の長短ではなく、受け手側の温度だと思う。どれだけの速さで視聴しようと、そこに愛がなければ、作品はコンテンツの域を脱することはない。翻って、TikTokで切り抜き動画を観ただけであっても、その短い数十秒に心奪われ、原作に遡行し、登場人物の名前を覚え、設定や台詞を暗記し、二次創作にまで手を伸ばすのであれば、その数十秒は当人にとってまぎれもなく「作品」となる。対象を摂取する速度は愛(LUV)の濃淡を保証しない。それに触れた後、何が残るのか、何かを残そうと行動に至るかどうか──それだけがコンテツと作品を線引きする。</p>
<p class="noind">『フォールガイ』の劇中、プロデューサーの女性はどうして「コンテンツ」という言葉に嫌悪感を示したのだろう。彼女が拒絶していたのは略語がもたらす語感ではない。「コンテンツ」という言葉が前提とする、作り手と受け手の関係性を拒絶していたのだ。</p>
<p>コンテンツ──容れ物（Container）を語義に持つ言葉。</p>
<p>容れ物としてのプラットフォームが先にあり、その容れ物の空白を埋める「中身」として映像作品が量産される。Netflixの月次ラインナップ、Youtubeのおすすめ欄、TVerの番組表──こういった「容れ物」の側に主権がある世界では、映画は容れ物の容量にあわせて成形される素材でしかない。スタントマンがどれだけ身体を張り、命を削っても、それが容れ物の中で消費され、1日後には忘却されるのならば、彼／彼女らの仕事は容れ物を満たすための「中身」に過ぎない。プロデューサーは、この倒錯した関係性を拒絶したのだ。</p>
<p>ここに、作品とコンテンツをわける一線がある。作品とは、容れ物（プラットフォーム）の側ではなく、作り手と受け手、双方の側に主権がある映像体験のことだ。その主権の所在を決めるのは、愛（LUV）に他ならない。</p>
<p>ここで、ある男を召喚したい。タイラー・ダーデン。20世紀最後の反逆児にして、革命児。時代の変遷期に大衆文化のなかに立ちあらわれたテロリスト。デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイトクラブ』（1999）の、あの男だ。</p>
<p>タイラーは消費社会を憎んでいた。IKEAのカタログをめくり、自分が何者かを家具の組み合わせで規定しようとする「僕」を嘲笑い、地下室で素手の殴り合いをすることで、商品によって規定された自己から脱出しようと試みた。タイラーの暴力は容赦がない。遠慮会釈のないむき出しの暴力性──グロテスクで反動的で動物的な衝動がタイラーに拳を振るわせる。</p>
<p>そんなタイラーが僕たち観客に突きつけた問いは、20世紀末の問いとして、ミレニアムの一幕として消費され、忘却されるたぐいのものではない。「お前が買ったものが、お前を作っているのではない」──これは21世紀のサブスク時代でも有効な問いだ。</p>
<p>20世紀のタイラーは、IKEAの家具を爆破することで自己を取り戻そうとした。もし彼がこの21世紀、2026年の現代に生きていたら、何を爆破するだろうか。おそらく家具ではない。世界中を覆い尽くすほど肥大化したプラットフォーム、容れ物を爆破の対象に選ぶはずだ。</p>
<p>Netflixのトップ10、YouTubeのおすすめ、TikTokのFor You ページ──アルゴリズムが用意した容れ物の中で受動的に「中身」を浴び続ける限り、僕たちは自分の欲望に無自覚なまま、容れ物に与えられた欲望を自分の欲望と錯覚する。これは本当に自分が好き好んで観ているのか、それともアルゴリズムに推奨されたから観ているのか、ネットの評価が軒並み高評価だから自分もこれが気に入るはずだという前提で観ているのか──そうして僕たちは自分の欲望を見失い、自分の欲望を語るための言葉を喪失し、自己像も、見当識すらも失う。「バズっている」「高評価」「酷評」「おすすめ」という外部の声を参照しなければ、自分の好悪すら判定できなくなる。プラットフォームの奴隷である。</p>
<p>21世紀におけるタイラーの仕事は、地下室で殴り合うことでもなければ、ファミリー映画のフィルムリールの1コマに屹立した男性器を挿入することでもない。私はジャックの乳首です。
自分の言葉で自分の欲望を語ること。アルゴリズムの推薦ではなく、評論家の星取りでもなく、興行収入でもなく、自分がたまたま観てしまった、思わず反応してしまった、その事実から出発し、「なぜ好きなのか」を誰に頼まれたわけでもないのに、語り続けること──それが21世紀におけるスペースモンキーの在り方だ。</p>
<p>パンクの時代、ファンジンは音楽そのものよりも意義深いものだった、と批評家のマーク・フィッシャーは書いている。なぜなら、ファンジンは中心化された管理の必要姓を拒絶し、感染活動（contagion）のまったく別の様態を可能にしたからだ。レコード会社の宣伝部や音楽雑誌のレビューを介さずに、好事家たちが好きな相手に直接、コピー機で印刷したザラ紙を手渡すことで、音楽は伝播していった。ファンジンの本質はレビューの質ではない。受け手が同時に作り手にもなり得る、その回路にこそファンジンの本質がある。</p>
<p>情報環境が整備された現代において、この回路はオンラインに遍在している。Letterboxd、note、はてなブログ、Substack、Podcast、Discord──ファンジンに代わる感染回路はすでに無数に開かれている。コンテンツの消費者であることをやめ、作品の忠実な受け手となって、作品について語ること。その回路はすでに整えられている。問題は回路の有無ではなく、そこに注入するLUV（愛）を、僕たち一人ひとりが自分の体温として持てているかどうかにある。</p>
<p>この荒削りな同人誌もまた、そんなLUVに駆動されたオタクによって書かれた、ファンジンの一形態である。
僕はプロの批評家ではないし、アカデミアの研究者でもない。ただ、自分が触れてしまった映画やドラマ、アニメ、ゲーム、本について、自分の言葉で、自分の体温で、自分の欲望を確かめるために言葉を弄ぶ。
「やめて、その言葉』と叫んだ、あのプロデューサーに向けて、21世紀のタイラー、その眷属たるひとりのスペースモンキーとして応答したい。</p>
<p class="noind">「ファイトクラブではおまえは銀行預金の額ではない。仕事ではない。家族ではない。自分で思い込もうとしている人物像ではない」</p>
<p>メカニックは風に向かって怒鳴る。「名前ではない」</p>
<p>バックシートのスペース・モンキーの一人が応じる。「悩みではない」</p>
<p>メカニックが怒鳴る。「悩みではない」</p>
<p>スペース・モンキーが叫ぶ。「年齢ではない」</p>
<p>メカニックが怒鳴る。「年齢ではない」</p>
<p>タイラーが告げる。「LUV──薄っぺらい、むき出しの“愛”だ」</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>ラスト・オブ・アス</title>
    <link>https://indi-visual11.com/the-last-of-us/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-the-last-of-us</guid>
    <pubDate>Sun, 10 May 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>ゲーム</category>
    <description>終末のフロンティアを解剖する六つの視点</description>
    <content:encoded><![CDATA[<h2 id="sec-1">1. なぜ今『ラスト・オブ・アス』なのか</h2>
<p class="noind">『ラスト・オブ・アス』をゾンビものとして読むのは、もっとも凡庸な誤読だろう。本作はサバイバルホラーの皮を被った政治的・神学的寓話に他ならない。ノーティードッグが2013年に世に問うた本作は、2022年のPS5向けリメイク、2020年のPART2、そして2023年のHBOドラマ化を経てなお現代性を失っていない。むしろコロナ禍と陰謀論の時代を経た今こそ、この作品が秘めていた射程の長さがあらわになりつつある。</p>
<p>本稿では原作ゲームを軸に、表層の物語──父娘的二人組による横断旅行──を超えて作品が孕む六つの「見立て」を提示する。</p>
<p class="noind">（一）逆走するフロンティア神話としての構造、（二）社会契約の崩壊と血縁的部族への回帰、（三）寄生菌をめぐるイデオロギー論、（四）キリスト教的犠牲構造の倒錯、（五）ゲームというメディア固有のプレイヤー共犯性、（六）暴力の循環と他者性の倫理。</p>
<p>これらの層は別々に存在するわけではない。互いに重なり合い、共鳴し、最終的にひとつの問いに収束していく──「終末以後、人間は何を頼りに生きるのか」という問いに。</p>
<h2 id="sec-2">2. フロンティアの遡行──アメリカ建国神話の解体</h2>
<p>物語の出発地はマサチューセッツ州ボストン、終着地はユタ州ソルトレイクシティ。この地理的軌跡は決して恣意的ではない。ボストン近郊のプリマスは、1620年にメイフラワー号で渡米したピルグリム・ファーザーズが上陸した「アメリカという国家の始まりの地」だった。一方、ユタ州ソルトレイクシティは、1840年代にニューヨークで生まれ迫害されたモルモン教徒たちが、長い苦難の旅の果てに辿り着いた「終の住処」だ。</p>
<p>つまりジョエルとエリーは、アメリカ建国神話の往路を逆走している。東から西へ、希望から幻滅へ、契約から崩壊へ。ヴァレンティーナ・ロマンツィが指摘するように、本作は「フロンティア神話のポスト・アポカリプス的再演」として機能している<a class="fn-ref" id="fnref-1" href="#fn-1" role="doc-noteref">[1]</a>──いや、より正確に言えば、それは再演というよりむしろ解体だろう。フロンティアは外側に向かって開かれた未知ではなく、内側に向かって崩れ落ちた残骸として現れる。</p>
<p>この点で本作は、明らかにウェスタン・ジャンルの形式──カウボーイ的男性主人公、フランネルシャツ、馬、リボルバー、荒野──を踏襲しながら、その精神を裏返してみせる。ジョエルは確かに西部劇的英雄の系譜に連なるが、彼が守るのは共同体ではなく、たった一人の少女にすぎない。彼の暴力は秩序の回復のためではなく、私的な愛のために行使される。フロンティア神話の核心にあった「再生する暴力（regenerative violence）」というリチャード・スロトキンの古典的概念<a class="fn-ref" id="fnref-2" href="#fn-2" role="doc-noteref">[2]</a>は、ここで個人的執着の道具へと矮小化されていく。ペレイラがWiley誌で論じたように<a class="fn-ref" id="fnref-3" href="#fn-3" role="doc-noteref">[3]</a>、ジョエルは「カウボーイ的男性性」を反復しつつ、その目的論を空洞化させる人物だと言えよう。</p>
<p>このアメリカ的構造の解体は、第一作の冒頭から徹底的に描かれる。ゲームの最初のステージは「アメリカ歴史博物館」、そして「寂れた議事堂」。失われた中央政府の記号、機能を停止した民主主義の遺骸。プレイヤーは廃墟と化したアメリカ的記憶のなかを歩きながら、何かの「終わり」の現場に立ち会わされる。建国神話の終焉、それを目撃する旅路として『ラスト・オブ・アス』は始まる。</p>
<h2 id="sec-3">3. 契約なき共同体──FEDRAから血縁部族へ</h2>
<p class="noind">『ラスト・オブ・アス』の世界において、もっとも決定的な事実は感染ではない。連邦政府の機能停止──そちらこそが本作の真の前提だろう。パンデミック直後、中央政府は崩壊し、その代替として連邦緊急事態管理庁（FEDRA）が権力を掌握する。実在のFEMA（連邦緊急事態管理庁）を直接参照したこの組織は、当初は市民を守る防波堤として機能するが、やがてクーデターを起こし、強権体制を確立してゆく。</p>
<p>ここで作中世界は、ジョン・ロックが描いた社会契約論の前提を破壊してしまう。市民が政府に主権を委譲する見返りに、政府は安全を保障する──この契約が、根本のところで裏切られている。FEDRAは隔離地域を「保護」と称して管理するが、収容しきれない者を殺処分し、物資の配給を権力の道具とする。エリーが目撃する川辺の白骨遺体──公権力による虐殺の記憶──は、その契約破綻の物的証拠だ。</p>
<p>契約が機能しないとき、人間は何に頼るのか。本作の答えは明快に尽きる。血縁、部族、擬似家族。ジョエルとテスのパートナーシップ、ジョエルとエリーの疑似親子関係、トミーとマリアのジャクソンのコミュニティ、そして牧師デヴィッドが率いる擬似的家族。これらはすべて、崩壊した普遍的契約に代わる、特殊主義的・原始主義的な絆として立ち上がる。</p>
<p>ジャクソンのコミュニティは、一見するとユートピアに見える。リーダーがおらず、すべてを共有し、街には劇場もバーもある。だがこの共同体もまた、外部に対しては排他的であり、内部の調和は壁の外側にいる「敵」の存在によって支えられている。シアトルのワシントン解放戦線（WLF）も、スカーの宗教的共同体も、そしてジャクソンも、構造的には同じものだろう。役者が入れ替わっただけで、政府機能の消失後に残るのは、いつでも「我々／彼ら」という暴力的二分法でしかない。</p>
<p>ここに本作の鋭い洞察が立ち現れる。普遍を支える制度が消えたとき、人間は再び部族の論理へと退行してしまう。これは現代の政治的分極化、SNS的部族主義、そして国際秩序のGゼロ化を予言的に映し出しているように思える。FEDRAの腐敗、ファイアフライの大義、WLFの強権、スカーの狂信──いずれもポスト・国家時代における疑似的秩序の見本市と呼べるし、いずれも例外なく腐っていく。</p>
<h2 id="sec-4">4. 寄生菌というイデオロギー</h2>
<p>冬虫夏草（コルディセプス）は単なる感染源ではない。それは観念のメタファーとして読み解かれるべきものだろう。</p>
<p>冬虫夏草は脳に寄生し、宿主の思考を乗っ取り、行動を制御する。実際の冬虫夏草属の近縁種は、熱帯のオオアリの脳ではなく顎の筋肉に侵入し、宿主を高所に誘導したうえで噛みつかせ、そこで子実体を成長させて胞子を効率的に散布させる。ニール・ドラックマンがイギリスのドキュメンタリーでこの存在を知り、設定の核に据えたという事実は、決して偶然ではあるまい。彼は生物学的事実のなかに、観念が人間を蝕む構造を発見していた。</p>
<p>これは「観念に憑依された人間」という古典的な政治哲学のテーマを、生物学的フィクションへと翻訳したものと言ってよい。マルクスが論じた「イデオロギー」、アルチュセールの「呼びかけ（interpellation）」、あるいはより俗に言えば、現代のSNSにおけるアルゴリズム的同調圧力。私たちはどの瞬間においても、見えない胞子にすでに感染しているのかもしれない。</p>
<p>作中ではこの構造が、具体的なキャラクターを通じて何重にも反復される。HBO製作のドラマ版で描かれたビルは「サバイバリスト」を自称し、ガズデンフラッグを掲げ、9.11陰謀論を信じる。彼は明らかにアメリカの保守的プレッパー文化──ティーパーティーからQアノンへと流れ込んだあの精神的水脈──の戯画として機能している。ファイアフライのリーダー、マーリーンは「人類を救う」という大義に取り憑かれ、エリーの脳を取り出すことを正当化する。牧師デヴィッドは黙示録を説きながら、自らの共同体を維持するためにカニバリズムを許可する。</p>
<p>すべての登場人物は、何らかの「観念」に感染している。物理的な感染者と異なるのは、彼らが自らの感染を自覚していないこと、そしてその観念のために他者を殺すことを「正義」と信じ込んでいることだろう。ここにおいて『ラスト・オブ・アス』は、ポスト・トゥルース時代のイデオロギー論として読み直されるはずだ。私たちが恐れるべきは脳を支配する菌ではなく、脳を支配する物語のほうではなかったか。</p>
<h2 id="sec-5">5. 偽りの聖父──キリスト教的犠牲構造の倒錯</h2>
<p>ジョエルは父であり、エリーは犠牲となるべき子であり、ファイアフライはエリーを「磔刑」に処そうとする祭司団。これはキリスト教的構造の露骨な反復にほかならない。旧約聖書のイサクの燔祭において、アブラハムは神への信仰のためにわが子イサクを犠牲に捧げようとした。新約聖書では、神自身がわが子イエスを人類の救済のために犠牲とした。「一人の犠牲によって多数を救う」という構造は、キリスト教的犠牲論の核心であり、現代におけるトロッコ問題の宗教的原型でもあるだろう。</p>
<p>ところがジョエルは、この構造を根本から拒絶してしまう。彼は神になることを拒み、アブラハムになることを拒み、エリー一人を救うために人類全体の救済可能性を破壊する。ファイアフライ、その医師たち、マーリーン──彼らはみな「大義のための犠牲」を受け入れた者たちだったが、ジョエルはそれを問答無用で殺戮し、エリーを連れ去る。</p>
<p>これは倫理的に肯定されるべき行為ではない。だがそれは、「私的な愛は普遍的な善より重い」というジョエル個人の倫理的選択でもあった。ここに本作の根源的なアイロニーが宿る。ジョエルはキリスト教的な「愛」を選んだのではない。むしろ彼は、キリスト教的犠牲論を拒絶し、ユダヤ的な「身近な隣人」への愛を選び取ったと読めるはずだ──ドラックマン自身がイスラエル出身であることを思えば、この対比は偶然ではあるまい<a class="fn-ref" id="fnref-4" href="#fn-4" role="doc-noteref">[4]</a>。</p>
<p>ドラマ版第八話における牧師デヴィッドとの対決は、この主題を象徴的に描いてみせる。デヴィッドは終末論的キリスト教の戯画と言ってよい。彼は黙示録を説き、自らを「父」と呼び、共同体を「子供たち」と呼ぶ。彼の「父性」は教義的・抽象的・全体的なもの。一方、ジョエルの父性は個別的・身体的・特殊的なもの。エリーが燃え盛るダイニングでデヴィッドを肉切り包丁で滅多打ちにする場面は、抽象的父性に対する具体的父性の勝利として描かれる。エリーの顔に飛び散る返り血──シリーズ全体を貫くあの視覚的モチーフ──は、その勝利が同時に取り返しのつかない汚染でもあると告知している。</p>
<p>そしてジョエルは最後にエリーに嘘をつく。「他にも免疫体質者がいた。ファイアフライはワクチン開発を諦めた」と。この嘘こそが、本作の最大の倫理的爆弾と言える。父は娘のために、世界全体に対して嘘をつく。これは究極の私的倫理であり、キリスト教的普遍倫理への挑戦状にほかならない。「愛は世界より重い」──このシンプルな、しかし破壊的な命題こそが、第一作のすべてを駆動する重力として働いている。</p>
<h2 id="sec-6">6. プレイヤーという共犯者──ゲームというメディアの特殊性</h2>
<p>ここで本作がゲームであることの意味が、決定的に浮上してくる。</p>
<p>映画やドラマであれば、観客はジョエルの暴力を「目撃」する。だがゲームにおいて、プレイヤーはジョエルの暴力を「実行」させられる。引き金を引くのは私であり、ナイフで刺すのもまた私である。私は、見ず知らずの兵士を、護衛犬を、そして手術台にたどり着くまでに病院の医師たちを、自らの指で殺害していく。</p>
<p>イアン・ボゴストが「プロシージュラル・レトリック」と呼んだ<a class="fn-ref" id="fnref-5" href="#fn-5" role="doc-noteref">[5]</a>、行為そのものが説得を生むゲームの修辞法がここに働いている。プレイヤーは「ジョエルが正しいかどうか」を頭で判断するより前に、すでに身体的に共犯者となってしまっている。エンディングの嘘の重みは、この共犯性の堆積によって支えられているのだ。私が殺してきたから、ジョエルの嘘は私の嘘でもある。私が引き金を引いてきたから、ジョエルの選択を私は批判できなくなる。</p>
<p>PART2はこの構造をさらに残酷な仕方で展開していく。プレイヤーはまずエリーをプレイし、ジョエルの仇であるアビーへの復讐を遂行する。だが物語の中盤で視点はアビー側へと転倒する。プレイヤーはアビーをプレイしながら、自分が先程まで殺そうとしていた人物の生活、友人、犬、恋人、葛藤を体験させられてしまう。</p>
<p>そしてプレイヤーは思い知らされる。エリーが先程アビーの仲間として無造作に殺してきたあの人物には、名前があり、声があり、物語があったのだ、と。Eurogamerのインタビューでドラックマン自身もこう認めている──「自分がすでに殺した人々や犬と再会するのはとても悲しい。恥と罪悪感を感じた。これはゲームでは滅多に感じない感情だ」<a class="fn-ref" id="fnref-6" href="#fn-6" role="doc-noteref">[6]</a>。これはゲームというメディアが原理的に達成しうる、もっとも深い倫理的衝撃ではないだろうか。</p>
<p>ノーティードッグがNPC一人ひとりに名前を与え、仲間が死体に向かって名前を呼ぶ仕様にしたという事実は、この倫理的構造の延長線上に位置している。匿名の的（mark）を撃つのではなく、名前のある人物を殺すこと。それを身体で体験させること。本作の暴力描写の生々しさは、暴力を消費させるためではなく、暴力を耐えがたいものとして実感させるための装置として設計されている。</p>
<h2 id="sec-7">7. 循環する暴力と他者性の倫理</h2>
<p>ニール・ドラックマンはイスラエル占領下の西岸地区で生まれ育った<a class="fn-ref" id="fnref-4" href="#fn-4" role="doc-noteref">[4]</a>。彼が暴力の連鎖をテーマに据えた理由は、明らかに彼自身の文脈にある。Arc Studio誌のインタビューで、ドラックマンはPART2の構想が彼自身の体験した「報復の循環」から発していることを認めている<a class="fn-ref" id="fnref-7" href="#fn-7" role="doc-noteref">[7]</a>。共同脚本のハリー・グロスもまた、自身のPTSD体験をエリーのキャラクターに投影したと語っている<a class="fn-ref" id="fnref-8" href="#fn-8" role="doc-noteref">[8]</a>。</p>
<p>バビロニア・タルムードの一節──「誰かが殺しに来たら立ち向かい、こちらが先に殺せ」──は、本作の登場人物すべてに適用される倫理的最低線と言ってよい。生きるためには殺さねばならない。だが、その「生きるために」は、誰のためなのか。何のためなのか。</p>
<p>ジョエルはエリーのために殺す。エリーはジョエルのために殺す。アビーは父のために殺す。ヘンリーは弟のために殺す。すべての登場人物が「愛するもの」のために他者を犠牲にしていく。ここで露呈するのは、「愛」と「暴力」が対立しないという冷酷な事実だろう。むしろ愛こそが、もっとも執拗な暴力の動機となっていく。エリーがオーウェンの妊娠した恋人をうっかり殺してしまう瞬間、循環は完結する。誰もが誰かにとっての「愛されし者の仇」になってしまう。</p>
<p>この循環を断ち切る道はあるのか。本作の答えは慎重で、控えめなものに思える。それは「許し」ではない。エリーは最後までアビーを許してはいない。だが彼女はアビーを殺さない。なぜか。ジョエルとの最後の会話の記憶──「許せない。けど、許そうとしてる」──が彼女の手を止めるからだ。そして、アビーをプレイしたことで彼女もまた一個の人間だと体感した「プレイヤー」自身が、エリーの手を止めさせる。</p>
<p>つまり循環を断ち切るのは、抽象的な赦しの教義ではなく、具体的な記憶と関係性のほうではないか。アビーをプレイすることで他者の物語を知ったプレイヤー、ジョエルとの和解未満の対話を抱えたエリー──両者は「相手にも物語がある」という事実によって、辛うじて一歩を踏みとどまる。</p>
<p>これは現代における普遍的な暴力の問題への、極めて慎ましい応答と言ってよい。和解は到来しない。許しも訪れない。ただ、相手の物語を知ることで、暴力は一拍だけ遅延される。その遅延の積み重ねのなかにしか、おそらく希望はない。中東紛争、ロシア・ウクライナ戦争、米国の政治的分極化──現実世界の循環する暴力に対して、本作が差し出すのはこの一拍の遅延だけ。だがそれは虚無ではなく、ひとつの倫理として立ち上がってくる。</p>
<h2 id="sec-8">8. むすび──終末以後の倫理</h2>
<p class="noind">『ラスト・オブ・アス』が描いているのは、終末ではない。終末「以後」の倫理だろう。</p>
<p>国家が崩壊し、契約が破綻し、普遍的物語が消失したあと、人間は何を頼りに生きるのか。血縁か、部族か、観念か、それとも個人的愛か。本作の答えは、どれも危険を孕んでいる、というもの。血縁は排他性を生み、部族は戦争を生み、観念は寄生し、個人的愛は普遍的善を裏切る。</p>
<p>それでも私たちは何かを選ばなければならない。ジョエルは「個人的愛」を選んだ。その選択はエリーを救い、人類を見捨てた。エリーはやがてその選択の重さに気付き、復讐の旅に出るが、結局は自分もまた同じ循環のなかにいることを発見してしまう。誰もが正しく、誰もが間違っている。これが本作の終わらない不協和音にほかならない。</p>
<p>ノーティードッグの傑作は、ゾンビ・ゲームの皮を被った政治哲学的寓話として読まれるべきだろう。冬虫夏草とは観念のメタファーであり、フロンティアとはアメリカの裏返しであり、ジョエルの嘘とはキリスト教的犠牲論への挑戦状。そして何より、プレイヤー自身がこの倫理的迷宮の共犯者として召喚されてしまう。本作の暴力描写の異様な生々しさは、暴力を消費可能なスペクタクルから倫理的負担へと変換するための装置として機能していたのだ。</p>
<p>私たちはみな、すでに胞子を吸い込んでいる。何らかの観念に感染している。何かのために誰かを犠牲にすることで今この瞬間を生きている。『ラスト・オブ・アス』は、その事実を冷酷に、しかし美しく、突きつけてくる作品ではなかったか。終末はもう起きてしまった。だが狼狽する必要はない。「Endure and Survive（耐えて生き抜け）」──ポスト終末世界を生き抜く術は、すでに作品のなかで示されているのだから。</p>
<hr>
<p>※ 本稿は2万文字程度のメモ書きをもとにClaude Opus 4.7で作成した。</p>

<section class="footnotes" role="doc-endnotes" aria-label="注釈">
<h2 class="footnotes-title">注釈</h2>
<ol class="fn-list">
<li id="fn-1">Valentina Romanzi, &quot;Staying Human in the Post-Apocalypse: The Frontiers of Individualism in <em>The Last of Us</em> and Its Sequel,&quot; <em>JAAAS: Journal of the Austrian Association for American Studies</em>, 2024. 同論考はTLOUシリーズを「個人主義的フロンティア」の再演として読む批評的読解。 <a href="#fnref-1" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-2">Richard Slotkin, <em>Regeneration Through Violence: The Mythology of the American Frontier, 1600–1860</em>, Wesleyan University Press, 1973. 「再生する暴力（regenerative violence）」概念は同書を起点とし、続く三部作（<em>The Fatal Environment</em>, 1985／<em>Gunfighter Nation</em>, 1992）で展開された。 <a href="#fnref-2" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-3">A. Pereira, &quot;The Postapocalyptic Frontier Hero: The (Weird) Western, Cowboy Masculinity, and Regenerative Violence in <em>The Last of Us</em> (2013),&quot; <em>The Journal of American Culture</em>, Wiley, 2025. <a href="#fnref-3" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-4">ニール・ドラックマンはイスラエルに生まれ、幼少期をヨルダン川西岸地区の入植地で過ごしたのち、十代で米国へ移住したことを各種インタビューで本人が公にしている。Cf. <em>Eurogamer</em>（2020）および <em>Arc Studio Pro Blog</em>（2020）の各インタビュー。本稿§5および§7の言及はいずれも同事実を踏まえる。 <a href="#fnref-4" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-5">Ian Bogost, <em>Persuasive Games: The Expressive Power of Videogames</em>, MIT Press, 2007. 「プロシージュラル・レトリック（procedural rhetoric）」概念は同書第1章を中心に展開されている。 <a href="#fnref-5" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-6">&quot;The Last of Us Part 2 spoilercast: Neil Druckmann and Halley Gross interview,&quot; <em>Eurogamer</em>, 2020. 引用部分はドラックマンの発言の抄訳。 <a href="#fnref-6" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-7">&quot;How TLOU Part II Writers Crafted a Game That Made Us All Cry,&quot; <em>Arc Studio Pro Blog</em>, 2020. ドラックマンはPART2の主題的起点として「報復が報復を呼ぶ循環」を挙げる。彼自身のイスラエル／西岸地区出身という個人史と切り離せない主題化である点については上記註4を参照。 <a href="#fnref-7" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
<li id="fn-8">Halley Gross は <em>IndieWire</em> および <em>Arc Studio Pro Blog</em> のインタビュー（2020年）において、自身のPTSD体験がエリーの心理造形に反映されていることを語っている。 <a href="#fnref-8" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>ハムネット</title>
    <link>https://indi-visual11.com/hamnet/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-hamnet</guid>
    <pubDate>Sun, 12 Apr 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    <description>変えられないものを、いかに受け入れるか</description>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ」<cite class="quote-source">— ラインホールド・ニーバー</cite></p></blockquote>
<p>クロエ・ジャオ監督の新作『ハムネット』を観た。映画祭、海外レビューなど上々だった前評判に違わず傑作だった。本稿は鑑賞から1日後に書かれている。鑑賞後、1日という時間を置いてもなお、僕の頭の中には『ハムネット』についての思索がたゆたっていて、それをどうにか言語化しておかなければ、とてもじゃないけれど週明けから仕事に身が入らない…そんな焦燥感からこの文章は書かれている。</p>
<p>まずは作品概要を述べておこう。舞台は16世紀のイングランド。ウィリアム・シェイクスピアと妻アグネスは、11歳の息子ハムネットをペストで失う。その喪失体験が不朽の名作『ハムレット』誕生の淵源だった──史実を大胆に解釈することで、英国文学の巨頭ウィリアム・シェイクスピアを家族史の視点から脱構築せしめた悲哀劇。それが本作『ハムネット』のあらましだ。</p>
<p class="noind">『ハムネット』が傑作だった理由は大きく分けて2つある。1つ目は感情的なカタルシス、2つ目は本作の主題が捉える射程の長さだ。前者については公開直後からSNSで散々っぱら言及されているが、少しだけ付言しておくと、本作がクロエ・ジャオ監督作品という、いわゆる独立系の映画に属する作品でありながら全世界で1億ドル以上のヒットを叩き出している要因は、この過剰と言っても差し支えない感情的なカタルシスに見いだせる。</p>
<p>端的に言って、本作は「泣ける」。主要な筋立てを追いかけているだけで、思わず落涙し、胸が苦しくなるような瞬間が劇中で何度も訪れる。嫌な言い方をすれば、シェイクスピア文学にまつわる専門知識がなくとも、等身大の人間が織りなす哀切に共鳴して泣くことができる。監督のクロエ・ジャオは家族の哀切を丁寧に掬い取り、幽微的な映像表現で描き出すことで、観客の涙腺に拍車をかける。そして、最後の駄目押しと言わんばかりにクライマックスで投入されるのが、現代を代表するコンポーザーの1人、マックス・リヒターの既存曲の中でもっとも著名なスコア『On the Nature of Daylight』だ。</p>
<p>かつてマーティン・スコセッシ監督が『シャッター・アイランド』で使用し、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が『メッセージ』で使用して以来、感動させる楽曲装置として一躍名を馳せた定番曲。そんな「ド」がつくほどの定番曲を愁嘆場に用いるのは、感傷的を通り越して露骨すぎやしないか？──欧米メディアのレビューでは、この「過剰さ」が槍玉に挙げられている。</p>
<p>たしかに、クライマックスの場面に至るまでマックス・リヒターの劇伴は意図的に抑制されていたし、『関心領域』を手掛けたサウンドデザイナーによる環境音・自然音がリヒターの劇伴以上に雄弁にシーンの感情を表現していた。それまでずっと静謐だった音響トーンをクライマックスの場面でひっくり返し、過剰なまでの感涙を誘うその演出に、斜に構えた批評家たちが鼻白む気持ちもわかる。</p>
<p>だが、それでもやはり泣けるのだ。ややもすれば作為的にすら感じる、お膳立てされた感動の舞台装置であったとしても、僕は劇中なんども溢れる涙を堪えることができなかった。シェイクスピア作品が繰り返し描いてきた悲劇──悲しみ、苦しみ、遣る瀬なさ──その普遍的な感情に思わず共鳴し、落涙してしまう。</p>
<p>やや過剰気味な「泣かせる」演出に心を動かされ、「正しく」泣くことができて、エンドロールが終わった後にはスッキリした感覚が心地よい余韻として残る。普遍的な感情をレバレッジすることで最小公倍数的な幅広い観客層を満足させる。本作がヒットした構造は、このようにまとめることができるだろう。</p>
<p>だが、僕が『ハムネット』について、こうして言辞を弄するに至ったのは、そんなAIで代替可能な薄っぺらいヒット分析をするためでもなければ、心奪われた感動について縷々と語るためでもない。本作が扱う主題とその射程の長さを語るためだ。</p>
<p>そこで、冒頭で麗々しく引用したラインホールド・ニーバーの言葉に立ち返る。本作はグリーフケアの物語だ。いかにして死を受容するか──自分ではどうすることもできないもの、変えられないものをいかにして受け入れるのか。本作が描くのは、親しい人を亡くした後の「喪のプロセス」つまりグリーフケアのプロセスに他ならない。</p>
<p>ペストの罹患によって愛息ハムネットを亡くしたウィリアムとアグネスは、それぞれ異なる方法で息子の死を受け入れようとする。自然との繋がりを信じ、霊感的な能力を持つアグネスは自身の知覚、つまり身体性を通じて息子の死を受け止める。一方、新進気鋭の劇作家たるウィリアムは言葉を通して、死の喪失感と向き合う。「死」とそれに伴う「喪失感」という不可視の対象を捉えようとする働きは、想像力を介して行われる。ここではグリーフケアに対する2人のアプローチをそれぞれ「身体的想像力」と「言語的想像力」と呼んでおこう。</p>
<p>両者の想像力の違いは、アグネス／ウィリアムの在り方と息子ハムネットの死を経験する方法によって規定される。アグネスにとって「母である」ことは自ら選んだ結果でもなければ、誰かに強制されたものでもない。（このように書くと性差と役割の観点からフェミニストを自称する連中が嬉々として反駁しそうな気もするが、ここで論じたいのは社会的な役割ではなく実存的な問題、生き方の問題だ）</p>
<p>アグネスにとって「母である」ことは生き方である。アグネスという存在そのものを規定する在り方である。子供を救うためなら自分の命を進んで差し出すと明言し、「この子を連れて行かせはしない」と何度も口にしながらペストに罹患した子供たちを看病するアグネスの姿には、尋常ならざる生命力が宿っている。夫ウィリアムとの会話では、表情や目つきの微妙な変化によって平板な感情を示すアグネスだが、子供の出産・喪失に際してありったけの感情を迸らせる。この両極端に躍動するバイタリティは「母であること」──アグネスの生き方が源泉となっている。アグネスの迸る激情は情緒的な脆さ（気質）の発露ではなく、彼女を「母親」たらしめる条件である。</p>
<p>母親として存在するアグネスは、つねに知覚を通して、身体性を介して世界に触れる。本作のファースト・ショットは森林の中に横たわるアグネスの姿を捉えた映像になっているし、劇中で彼女が夫と言葉を交わす時、彼女は何らかの用事をこなしている。用事をこなし、身体を使いながら夫に応答する。息子ハムネットの死に際では、痛みにのたくる息子の両足を押さえつけることで、その痛みを知覚する。彼女にとってハムネットの死は、知覚を通して体験したこと＝実感を伴った痛みだった。苦しみもだく姿を目の当たりにしたことで、アグネスは息子の死後もその痛みを抱え続ける。</p>
<p>一方、夫ウィリアムは息子ハムネットの死に際を目にしていない。ロンドンへ発つ前には元気だった息子は、帰宅した時には物言わぬ亡骸に変わっていた。息子の死を受けてウィリアムが口にする言葉は、「逝った（gone）」ではなく「消えた（vanished）」だった。ウィリアムにとって、息子の死は実感を伴っていない。奪われたという感覚すらもない。気がついたら消えていた、という感覚がいつまで経っても拭い去れない。だから苦しむ。</p>
<p>実感が伴わない息子の死をウィリアムは言葉によって理解しようとする。アグネスにとって息子の死が「感覚されるもの＝感じるもの」だったのに対し、ウィリアムにとっては「理解する対象＝言葉を向ける対象」だった。</p>
<p>アグネスにとって「母親であること」が存在様態そのもの、生き方であったのに対し、ウィリアムにとって「劇作家」であることはロンドンで自己実現を果たすための手立てに過ぎず、他のものと代替可能な手段に過ぎない。</p>
<p>なぜ、息子は死なねばならなかったのか。答えの出ない問いを考え続け、言葉を用いて理解できぬものを理解しようとすることで、ウィリアムは演劇に逃避していく。自らが置かれた境遇・いま感じている胸の痛み、苦しみを理解しようとするプロセス──それが戯曲として結実する。</p>
<p class="noind">「身体的想像力」と「言語的想像力」。愛息を失ったアグネスとウィリアムはそれぞれ異なる方法で、死の喪失感を受け入れようとする。両者のアプローチの違いが、次第に2人の関係に溝を生み出す。</p>
<p>そして、両者の異なる想像力は、愛息の死から生まれた演劇「ハムレット」の初演時に接合される。生身の役者が舞台上で役を演じ（身体性）、台詞を発する（言語性）ことで成立する舞台演劇は、アグネスとウィリアム、それぞれの異なるグリーフケアが接合される場として機能する。「身体的想像力」と「言語的想像力」が接合され、「演劇的想像力」への止揚に至る。その場限りの一回性と物語性を持ったことで、「演劇的想像力」は、息子の死という「変えることのできないもの」を受け入れることを可能にする。</p>
<p>劇中劇のラスト、愛息ハムネットを幻視したアグネスは、彼の死後はじめて快活な笑顔を見せる。だがその直後、彼女は表情を消して真顔に戻る。物語の中に「息子の喪失」を投影することで、それまでずっと身体感覚によって捉え続けていた息子の死を舞台演劇に仮託し外部化することで、アグネスは死の喪失感を受け入れることに成功する。だが、その効果は舞台が演じられている瞬間しか持続せず、舞台が終われば再び容赦のない現実が、喪失感が襲ってくる。映画を観ている間、観客は日常の些事を2時間だけ忘れられるが、映画館の客席に明かりが戻ると、ふたたび日常に襲われる──僕たちの映画体験に通底する現実／虚構の揺り戻しが、「演劇的想像力」の限界が、本作のラスト・ショットで示唆されるのだ。アグネスとウィリアムが弁証法的な過程を経て到達した「演劇的想像力」──それはあくまで一時的な処方箋に過ぎず、「息子の死」とそれに伴う「喪失感」を取り除く根治治療ではないことが映画の最後で示される。</p>
<p>とどのつまり、死を受け入れる＝弔うとは自分を納得させることなのであり、「死」という事実が「変えられないもの」である以上、自身を変えるほかない。</p>
<p>これは奇しくも現在の時代感覚を反映しているのではないか。クロエ・ジャオ監督の前作『エターナルズ』が公開された2021年、その翌年に公開された映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を特徴づけるのは「マルチバース概念」だった。いかにして世界を自分が望む形に変えるか──開かれた無数の可能性を自分の望みどおりに収斂させるか。ここには、世界は「変えられるもの」という前提があった。</p>
<p>だが、今年（2026年）に公開された『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』や本作『ハムレット』において、世界は「変えられないもの」として扱われている。たった5年の間に、「この世界をいかに変えるのか？(可能性に開かれた世界観)」から「変えられないこの世界をいかにして受容するのか？(閉塞感に覆われた世界観)」へと、時代感覚がシフトしている。</p>
<p class="noind">『ハムネット』が口コミによって評価され、北米市場でヒットしたことは、そんな時代感覚の変化と決して無縁ではないだろう。</p>
<p>近年の映像作品には、“物語的な想像力”が欠けている。『ブゴニア』『ワン・バトル・アフター・アナザー』『Warfare』『ザ・ボーイズ シーズン5』など、現実を忠実に模写したかのような虚構世界を描く近年の映像作品は枚挙に暇がない。現実が虚構化し、虚構が現実化する時代──それが2026年という時代なのかもしれない。</p>
<p>閉塞感に覆われた現代で“物語的な想像力”を取り戻すことは可能なのか？──『ハムネット』はその問いに真っ向から応答することで、閉塞感に一筋の光明をもたらす希望だと言えるだろう。</p>
]]></content:encoded>
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    <title>センチメンタル・バリュー</title>
    <link>https://indi-visual11.com/sentimental-value/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-sentimental-value</guid>
    <pubDate>Sun, 22 Feb 2026 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    <description>「○○について」語ることでしか、伝えられない</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>着火、一服──ゆっくりと紫煙を吸い込み、吐き出す。<br><span class="ind"></span>3時間ぶりに摂取したニコチンが身体を弛緩させる。喫煙室の重い扉を開けて入ってきた若いカップルが、カバンからIQOSを取り出しながら話はじめた。</p>
<p class="noind">「あの席、めっちゃ良い席だったね」<br>「すごく見やすかったよね」<br>「最初の場面、あのめっちゃ綺麗な海の場面とかヤバかったもん」<br>「ほんとそれ」<br>「てか、もうちょっと暖かくなったら海行かない？」<br>「湘南とか？」</p>
<p>猫の額ほどのスペースしかない喫煙室に充満する煙を透かしてカップルが談笑し続けている。その光景を呆然と眺めながら、僕は内心で膝を打っていた。</p>
<p class="noind">「なるほど。『センチメンタル・バリュー』って、コレについての映画なんだな」</p>
<p>ヨアキム・トリアー監督の新作『センチメンタル・バリュー』を鑑賞した後、喫煙室での一幕である。ここで交わされた会話の真意は何だろうか。二人が本当に伝えたいことは何だったのか。二人の話題は映画の座席から感想へ、さらに海へ変遷していく。カップルは「映画ついて」語りながら、楽しい時間を過ごしたことを互いに確認し、さらに楽しい時間を過ごしたいという願望を伝えるために「海について」語っていたのではないか。俯瞰すれば、これらの会話の根源にあるのは互いの「好き」という感情であり、その感情を確認し合うために今も、そしてこれからも、言葉は交わされ続け、映画を観に行ったり、海へ行ったり、海外旅行をしたりといった様々なイベントが行われるのだろう。</p>
<p>本当に伝えたいことを伝えるために、「◯◯について」語ることでしか、それを表現できない、というもどかしさ。このコミュニケーションの不完全性を父娘の断絶という形で描いたのが『センチメンタル・バリュー』だった。</p>
<p>ノルウェーの首都オスロで舞台役者として活躍するノーラ（レナーテ・レインスヴェ）のもとに、15年前に家を出奔した父グスタヴ（ステラン・スカルスガルド）が突然帰ってくる。15年という時間を隔てた父と娘の会話には、まるで社交辞令のようなよそよそしさが付き纏う。それに拍車をかけるのが、父グスタヴの「ある提案」だ。それは、かつて家族で過ごした家を舞台に、娘を被写体として映画を撮ること。実家をロケーションに、娘本人が主人公を演じ、それを父親が監督する。私小説的と言うにはプライベートに過ぎるこの提案をノーラはすげなく断る。映画製作のプロセスを通して父と娘の不器用なコミュニケーションが描かれていく。これが『センチメンタル・バリュー』のあらましだ。</p>
<p>ノーラとグスタヴに共通するのは「孤独」だ。部屋でひとり電話をかける様子や、食べ物が散乱した机など、ノーラとグスタヴをまったく同じ状況で描くのは、二人の孤独感を強調するためだ。</p>
<p>二人はなぜ孤独なのだろう。それは、心の拠り所、劇中劇の象徴的な台詞で言うなら「帰る場所」を喪失しているからだ。父と娘の間で交わされる不完全なコミュニケーションあるいは、コミュニケーションの不完全性──これこそノーラとグスタヴが「帰る場所」を失った原因であり、「孤独」な境遇はその結果に他ならない。</p>
<p>コミュニケーションとは不完全なものだ。この不完全性は2つの原因に見出すことができる。1つ目は「ことば」そのものの不完全性であり、2つ目は「受け手」の不完全性だ。</p>
<p>前者について言えば、コミュニケーションを媒介する「ことば」は、僕たちが知覚した情報の全てを完全に伝えきることはできない。冒頭のカップルの会話でいえば、「あの場面はすごかった」という「すごかった」部分について、いくら大量に言葉を用いても、その当人が感じた「すごさ」をそっくりそのまま言葉で置き換えることはできない。</p>
<p>だから逆説的に「ことば」から抜け落ちた部分にこそ話し手の真意が宿ることがしばしば起こる。巷でよく耳にする「行間を読め」という言葉がその好例だろう。「ことば」が不完全である以上、それを用いた会話もまた不完全性から逃れられない。これが「受け手」の不完全性だ。</p>
<p>本当に伝えたいこと（真意）をそっくりそのまま言葉にして伝えたとしても、話し手の真意が100％十全に相手に「正しく」伝わるとは限らない。そう、「ことば」は僕たちの知覚を完璧にトレースできないばかりか、受け手によって誤読される可能性も孕んでいる。そんな不完全なものを用いて、僕たちは日常的に会話している。この「ことば」の不完全性について端的に記した文章を引用しよう。</p>
<blockquote>
<p>「きみはこう思うことはないか、言葉に意味なんてない、とね」<br>
　ぼくは黙っていた。この男が何を言いたいのか、さっぱりわからなかったからだ。<br>
「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠回しに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」<cite class="quote-source">— 『虐殺器官』 P.224</cite></p></blockquote>
<p>小説『虐殺器官』の引用を援用すれば、ノーラもグスタヴも、二人が本当に伝えたいのは「愛してる」というプリミティブな感情と言えるだろう。恋人同士の性愛的な「好き、一緒に居たい」ではなく、家族愛としての「好き、一緒にいたい」という本源的な感情を二人とも抱きながら、その本質を伝えることができない。ここに親子の断絶がある。</p>
<p>冒頭のカップルの会話でいえば、性愛的な「好き、一緒にいたい」という感情を伝えるために、映画の座席についての話題や映画そのものの感想が語られる。それと同様に、『センチメンタル・バリュー』では家族愛的な「好き、一緒にいたい」という感情が、映画制作について語ることでやり取りされる。「◯◯について」語ることでしか、真意の周縁部について語ることでしか、真意に触れることができない、という不完全性。本質の意味には永遠に到達できず、その周辺をぐるぐる回ることでしか、「差異」という相対関係の中でしか、その本質に肉薄できない──ジャック・デリダの言葉でいえば「差延」と同じ不可能性が本作を貫いている。</p>
<p>本作における「語り」の多くが「◯◯について」語っているのが、その証左だろう。映画の冒頭、小学生のノーラが書いた作文がモノローグとして語られる。家を擬人化し、家の視点から捉えた家族の日常が小学生らしい筆致で綴られている。家族について語るために、「家について」語る。ここで、父と母の口喧嘩を「うるさい（ノイズ）」という婉曲表現で置き換えるのは、コミュニケーションの不完全性が時として「話し手」の作為によっても生じうることを示すためだ。グスタヴは「映画制作について」語る言葉でしか娘たちとコミュニケーションが取れないし、娘のノーラは「役作りについて」語る言葉でしか自分の苦悩を打ち明けられない。</p>
<p>孤独によってじわじわと心が蝕まれたノーラは心身に失調をきたしている。舞台に立とうとすると拒絶反応が出てしまうのは、本人の自覚しないところで精神が限界に達しつつあるからだ。この拒絶反応についてノーラは妹アグネスに「舞台が嫌いなわけではない」と語る。続けて、役者の醍醐味とは「役作り」にあると語る。演じる役柄の人物が何を見て、何を想い、何を考えているのかを想像することで自分と向き合うことができる。だから、「役作り」が好きなのだとノーラは言う。自分と向き合うために、「役柄」という触媒を通す必要性がある。「役作りについて」語ることで、自分の真意に耳を澄ますことができる。</p>
<p>これはグスタヴも同じだ。「映画製作について」語ることでしか、家族と向き合うことができない。回顧上映《レトロスペクティブ》が開催されるほど影響力を持つ映画監督が15年も新作長編映画を世に送り出していないのは、描くことができなかったからだ。家を出たことで、家族と距離を取ったことで、グスタヴには語るべき主題が喪失してしまったからだ。彼にとって映画製作とは、家族という本質を理解するための触媒であり、「映画について」語ることでしか、家族と向き合えないからだ。</p>
<p class="noind">「◯◯について」語ることでしか、本当に言いたいことを表現できない、という不完全性。だが、この限界が敗れる瞬間が往々にして起きる。劇中で描かれるように、妹アグネスは姉ノーラに抱きついて、「大好き」とストレートな感情をぶつけ、人気女優レイチェル（エル・ファニング）は、「この役は私に相応しくない。あなたも気づいているはずだ」とグスタヴを諌言する。成人した姉妹関係や、役者と監督という職業関係といった一定の距離感を保った関係性なら、ストレートな言葉で真意を伝えることができる。だが、父と娘にはそれができない。なぜなら、15年の空白期間を置いてもなお、二人の心が緊密に結ばれているからだ。家を出奔した後、父グスタヴが新作長編を撮ることできなかったように、娘ノーラもまた、父の不在に──小学生の彼女の表現でいえば”家が軽くなった”ことに──それがもたらす痛みを伴った哀しみに苛まれ続けてきたからだ。</p>
<p>劇中劇の脚本は、あきらかにノーラが結婚して家庭をもった場合に辿るであろう運命を想定した、父グスタヴのシミュレーションだ。なぜ、ノーラが自殺未遂したことをグスタヴは看取したのか。亡き母の自殺を描いたという偶然ではない。グスタヴにはノーラが置かれた状況が手に取るように分かったからだ。二人が親子であり、互いに似通った気質の持ち主だからだ。芸術家らしく鋭い感受性を持ち、孤独を抱え、「帰る場所」を失って苦悩している──グスタヴもノーラも、同じ境遇に置かれている。</p>
<p>グスタヴは、かつての仕事仲間が豪奢な家で孤立し、杖をつく姿に「死」と「老い」を見出し、自らの最期を想像して孤独に苛まれる。ノーラもまた、肉体関係を持つ劇団の男性スタッフには積極的に「好き」という異性愛的な好感を伝えることができるのに（湖畔での会話や森林でキスを迫る言動）、その率直さを父親には向けられない。分かっているのに、それができない──この両極端な振れ幅が彼女を蝕み、孤独にさせる（舞台に立とうとすると拒絶反応が出るように）。</p>
<p>空間的に離れ、15年という時間的に離れてもなお、緊密に結ばれた親子の絆。その距離感の近さゆえに、二人は「映画制作について」語ることでしか、「映画」という触媒を介することでしか、互いに向き合えない。距離感の近さが、感情的な緊密さが、時として自他を傷つける。その行き着く先が、グスタヴと妻の口喧嘩だ。コミュニケーションは不完全性なものであり、それゆえに「◯◯について」語ることで、その本質の表層に迫ることができる、ということ。この前提を忘れたままコミュニケーションを続けた結果、誤読が誤読を生み、グスタヴと妻はコミュニケーションの方途を失い、「罵り合う」ほかなかったのだ。</p>
<p class="noind">「映画製作について」語ること。父と娘という緊密な距離感ではなく、映画監督と役者というペルソナを纏うことで得られる適切な距離感でコミュニケーションを図ること。そうしてワンクッション置くことで、コミュニケーションの不完全性を最小限に留め置くこと。これこそ、グスタヴとノーラが見出した適切なコミュニケーションの在り方だった。</p>
<p>そうして、コミュニケーションの不完全性を前提とした時、グスタヴとノーラは「帰る場所」を取り戻す。タイトルに冠した「センチメンタル・バリュー（愛着のあるもの）」とは、実態としての「家」ではなく、概念としての「家族」のことだ。劇中劇の撮影が行われる最後の場面で、実物の「家」の外壁が白く塗り替えられ、スタジオに組まれた「家」のセットが使われていることが、それを象徴している。</p>
<p class="noind">「◯◯について」語ることでしか、その本質に迫れない、というコミュニケーションの不完全性。映画も含む「表現」もまた、ある種のコミュニケーションである。「コミュニケーションの不完全性について」語ることで、「帰る場所＝センチメンタル・バリュー」の本質を炙り出した〈『センチメンタル・バリュー』という映画について〉語ること。僕たちが「ことば」を用いるかぎり、それを用いてコミュニケーションを試みるかぎり、「◯◯について」語ることはマトリョーシカのように無限反復していく。</p>
<p class="noind">「映画について」語ること、とは何なのか。押井守は著書の中で次のように述べている。</p>
<blockquote>
<p>「映画を見ること」と「見た映画について語ること」は別の経験に見えて、その実は全く同一の経験である──いや、より正確に言うなら「映画を見ること」は「見た映画について語ること」によってしか成就しない、「映画は語られることによってしか存在し得ない」のだとして、しかし振り返ってみればその「語られた映画」と「見られた映画」は、実は依然として全く別に存在するものなのだ、という不可思議さこそが「映画を見る」という行為の真相なのです。<cite class="quote-source">— 『押井守の映画50年50本』 (立東舎)  2020年</cite></p></blockquote>
<p>押井の論を援用するならば、「◯◯について」語ることの限界を描いた『センチメンタル・バリュー』は、家族ドラマというジャンルを飛び越えて「映画ついての映画」として観ることも可能だろう。</p>
<p>SNSに情報が無秩序に反乱する2026年──アカデミー賞ノミネートも納得の佳作だった。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>『ベスト・キッド：レジェンズ』批判</title>
    <link>https://indi-visual11.com/karate-kid-legends/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-karate-kid-legends</guid>
    <pubDate>Sun, 31 Aug 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    <description>駄作を超えた、シリーズへの裏切り</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>だらしない…どうしようもなく、だらしのない映画だ。</p>
<p>レーガンが大統領に再選した1984年、映画史に残る名作が公開された。『ベスト・キッド』である。1作目公開から40年余、満を持して製作されたのがシリーズ通算6作目『ベスト・キッド：レジェンズ』だ。</p>
<p>非常にだらしのない映画。だらしのなさがゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどの怠惰で覆われた作品。どれだけ言葉を尽くしても言い足りない。これは単なる駄作ではない。シリーズの精神性を捨象し、自ら墓碑銘を刻む自害行為なのだ。</p>
<p>慣れ親しんだ土地を離れ、新天地に移り住んだ主人公が孤立し、虐げられ、己の無力感を嘆く…これが『ベスト・キッド』シリーズのお約束だった。2010年に公開されたリメイク版ですら、このセオリーを愚直なまでに踏襲していた。マジョリティから逸脱したアウトサイダー。疎外され、孤立し、虐げられた、無力な「個」。1作目の主人公ダニエル・ラルーソの置かれた状況に、ミスター・ミヤギが同情したのは、その疎外感と孤立感こそ彼自身が辿ってきた道でもあるからだ。</p>
<p>二次大戦前に沖縄から渡米し、多くの日本人が収容所で隔離される中、ミスター・ミヤギは米軍兵士として国に忠を尽くした。日本人という同朋を殺戮し続けることで自らの愛国心を証明する必要があった。築き上げた同郷人の骸の数だけ、ミスター・ミヤギの愛国心が証明される。私は敵ではない。こんなにも多くの敵を殺したのだから。己の無害性をアメリカという国に証明するために、ミスター・ミヤギは戦争中、戦い続け、殺し続けた。感情を殺し、自分の中の一部を鈍麻させて、同朋を殺戮する…その見返りとしてミスター・ミヤギに与えられたのは、望まぬ勲章と突然の妻子の訃報だった。武勲を飾り、愛国心を証明した報奨として彼に与えられたのは、一生癒えぬ心の傷だった。</p>
<p>ミスター・ミヤギがその後辿った人生は、苦難の道のりだったに相違ない。劇中、ミスター・ミヤギは自身の過去について語ることをやんわりと断り、内容はつまびらかにされないが、二時大戦終結後のアメリカ国内で黄色人種、とりわけ日本人が差別されたであろうことは想像に難くない。アメリカという異国の地で迫害され、疎外され、孤立した存在。ミスター・ミヤギがダニエル・ラルーソに同情を示し、彼を慈しみ、愛したのは、ダニエルの中に己の過去を幻視したからだ。</p>
<p>ミスター・ミヤギは禅問答のように、少ない言葉でしか語らない。マスター・ヨーダがそうであるように、ミスター・ミヤギもまた、多言を用して神秘性を損なうことを避ける。そんな彼が泥酔して過去の過ちと苦悩を吐露する1作目の場面。ここでダニエルは寝入ったミヤギにタオルを掛けてやり、横臥した彼に向かって黙礼する。多くを語らずとも、ミスター・ミヤギがこれまでに辿ってきた苦悩・痛みを感じ取り、ダニエルは彼の人生に敬意を払う。</p>
<p>そう、『ベスト・キッド』シリーズとは成長譚なのだ。師匠から多くを学び、弟子が成長する物語であり、弟子と交流する中で師匠が精神的に成長する物語。師弟関係で結ばれた2人が互いに影響を与え、成長する物語。それが『ベスト・キッド』シリーズの鋳型だったはずだ。翻って本作の主人公には成長する余地がない。成長譚の核心である、「弱さ」を超克した先にある「強さ」はない。最初から主人公が「そこそこ」強いからだ。</p>
<p class="noind">『ベスト・キッド：レジェンズ』の主人公は、物語開始時点である程度の強さを持っている。ジャッキー・チェン演じるハン師父いわく、「すでにカンフーの基礎はできている」。だから本作の主人公リーは、落ち目のボクサーであるガールフレンドの父を指導し、鍛錬する。カンフーの軽やかな動きを欲する落ち目のボクサーと、弱者の味方になりたい主人公──ここに利害関係が一致し、2人は師弟関係を築く。</p>
<p>映画館でこの展開を見つめながら、僕は「いったい何を見せられているのだろう」と冷めた感想を抱いた。師匠に学ぶこと、学ぶべき欠点が少なく、すでにある程度完成された主人公。まるで「なろう系」小説の主人公じゃないか。</p>
<p>主人公が初期段階から強い。成長譚を成立させる前提が、物語開始時点で捻じ曲げられている。『ベスト・キッド：レジェンズ』はシリーズの物語構造を破壊したのだ。</p>
<p>苦労して鍛錬する描写は、受け手（ユーザー）に過度なストレスを与えるので避けた方がよい。</p>
<p>これが「なろう系」小説のセオリーだ。令和のエンタメ最前線はそうなのかもしれないが、では40年の歴史を誇る『ベスト・キッド』シリーズはどうなるというのか。主人公が鍛錬せずに、何をするのか？</p>
<p>そこで本作が次善策として用意したのが、主人公のトラウマである。</p>
<p>殺人衝動も、仲間との不和も、事件の原因も、主要人物の裏切りも、物語的に重要なプロットのすべてを、その根拠を幼少期のトラウマに見出そうとするのは90年代の映像作品に顕著な内在論理だが、本作は令和7年・2025年の現代で、20世紀の手垢のついたトラウマ理論を持ってくる。だらしない。あまりにも短絡的にすぎる。</p>
<p>一人前のカンフーの使い手であり、ある程度の強さを持つ主人公が抱える唯一の弱さ──それは、実兄の死というトラウマだった。カンフー大会の帰り道、対戦相手に逆恨みされた主人公の兄は、複数人から暴行を受け、ナイフで刺殺されてしまう。恐怖に足がすくみ、兄が死んでいく様子をなす術もなく傍観していた主人公は、激しい悔悟に駆られ、大切なものを二度と失わないよう、ひたすらカンフーに没頭する。</p>
<p>主人公にとって、生前の兄はカンフーの師匠でもあった。自分では手の届かない高みに位置する存在から教えを乞う──シリーズが踏襲してきた師弟関係は、本作の場合、兄弟の間でのみ成立している。</p>
<p>物語終盤になってダニエル・ラルーソとハン師父が2人がかりで主人公を鍛錬する描写が用意されているが、ここで2人の師匠が教えるのは「戦い方」だ。どうやって殴り、蹴り、相手の隙をつき、相手を罠にかけるか。2人が教えるのは、相手を攻略するための具体的な手練手管であり、実践に即した戦い方だ。技だけでなく生き方・心の在り方を涵養する師弟関係というより、スポーツで得点することに特化したテクニックを教授するコーチに近い。本作における2人の師匠は、役割的には師匠ではなく、コーチに近いのだ。では、主人公リー・フォンにとっての師匠は、どこにいるのか？ それは亡き兄であり、リー・フォンにとっての師弟関係は過去の中に埋蔵されている。</p>
<p>従来のシリーズでは、主人公は大切なもの＝仲間や自分を守るため、誇りをかけて戦に挑む。ダニエル・ラルーソが戦うのは、己自身のためであり、他人のためでもある。自分の居場所を掴むために、ダニエルは闘った。戦いの動機＝大切なものを自分の居場所や他人に設定することで、従来シリーズは主人公の心の強さを証明してきた。</p>
<p>本作の主人公が最終決戦に挑む動機は、従来とは性質を異にする。主人公リー・フォンが戦うのは、兄の幻影を守るためだ。ヒロインでも、家族でもなく、亡き兄の幻影を、かつて守れなかった兄の幻影を今度こそは守るためだ。</p>
<p>かつて目の前で刺殺された兄の姿。ボクシングの試合の途上、ヒロインの父がリング上にひれ伏した時、主人公は兄の姿を幻視していた。ヒロインの父がリングで倒れ、病院に緊急搬送された後、主人公はカラテ大会出場を決意する。彼が戦うのは賞金のためでもなければ、借金にまみれたヒロインの父を救うためでもない。かつて守れなかった兄の幻影を、ヒロインの父親に重ねてしまった亡き兄の姿を、今度こそは守りたいという過去の贖罪なのだ。</p>
<p>従来シリーズでは「心の成長装置」として機能していたカラテ大会は、本作では「過去に閉じた私的な感傷」へと矮小化されている。</p>
<p>ここまで列挙してきたのは本作の物語構造的な破綻点だが、技巧的な拙劣さも枚挙に暇がない。</p>
<p>90分という短尺でありながら、冗長なプロットを並べ立て、地下鉄の背景に格闘ゲームTEKKENのポスターを忍び込ませ、その伏線回収と言わんばかりに格闘ゲームのUI演出のような、戯画的な演出を本作の見せ場であるカラテ大会に持ち込み、予告編でフィーチャーしていた一番の大目玉、カラテ大会の決勝戦は時間に換算すると10分もないという倒錯したペース配分。</p>
<p>脚本家ブレイク・スナイダーが脚本の書き方指南を説いた書籍『Save the Catの法則』を、本作の脚本家は読んだのだろうか？</p>
<p>前述の著作の中で「真似してはならない悪例」として「氷山遠すぎ問題」が挙げられている。</p>
<p>内容はこうだ。もし映画『タイタニック』で、船が氷山に激突するのが映画の最後の方で描かれたとしたら…？</p>
<p>処女航海で沈没した豪華客船タイタニック号は、氷山に激突したことで海水が船底に浸水し、長い時間をかけてゆるやかに沈没していく。タイタニックが沈没するという映画の一番の見どころが、最後の方に用意されていたら、倍速視聴をためらわない現代の観客は途中で視聴を止めてしまうだろう。</p>
<p>本作で描かれるカラテ大会は、まさにこの「氷山遠すぎ問題」の好例なのだ。</p>
<p>UCLA映画学科の学生でも分かりそうだと思うのは私だけなのか？</p>
<p>先述した著作の中で、ブレイク・スナイダーは次のように記している。商業映画のプロデューサー達はワンラインを重視する。「それってどんな映画？」これを一行で言い表したものが業界用語で言うところの「ワンライン」だ。売れている映画、優れた映画には必ず秀逸なワンラインがある。たった一行で思わず興味を惹かれてしまうようなフック（仕掛け）が用意されている。</p>
<p class="noind">「夢の中に潜入する」──『インセプション』</p>
<p class="noind">「女二人の殺人逃避行」──『テルマ&amp;ルイーズ』</p>
<p class="noind">「最初の任務は、愛した女を殺すこと」──『007 カジノ・ロワイヤル』『メタルギア・ソリッド3 スネークイーター』</p>
<p class="noind">『ベスト・キッド：レジェンズ』におけるワンラインとは何か？</p>
<p class="noind">「カラテ大会に出場し、最後には勝つ映画」</p>
<p>映画の本質を衝くこのワンラインを最大効果域で発揮させるためには、どういうプロットを配置すればいいか？ 主人公をカラテに向かわせ、叶わない敵を倒すために特訓し、戦う。</p>
<p>たったこれだけのことなのだ。これが本作が本来やるべきことなのだ。</p>
<p>ヒロインとの恋模様は従来シリーズからのお約束だが、ボクシングの試合をしたり、母親とチャイナタウンのお祭りに行ったり、そんな余計なことをしている暇は1秒たいともないはずだ。120分の映画なら許される。だが、本作の上映時間は96分しかないのだ。</p>
<p class="noind">「何を見せたいのか？」<br>「この映画を観に、映画館を訪れるリアルタイム世代は、何を観たいのか？」</p>
<p>仕事として映画制作者が熟考を重ねるべき、この2点を本作の監督と脚本家は怠った。制作者のマスターベーションに付き合っているほど、現代の観客は暇ではない。日々配信される海外ドラマ、発売される新作ゲーム、友人・知人からのLINE、推し活、パパ活、マッチングアプリ…飽和状態にある余暇の手段の中から、わざわざ映画を選んで2時間ないし90分の時間、そこに全てを捧げる。本作のようなシリーズ作品なら尚更だ。生真面目な若い視聴者なら、配信サービスで過去作をイッキ見して「復習」しているかもしれない。</p>
<p>お前らは、そういった観客たちのことを、彼/彼女らの想いを、気持ちを、どこまで真剣に考えたのか？</p>
<p>ただ性欲を発散する相手が欲しいというだけの利己的な理由から、とりあえず「付き合って」と告白する大学生程度の浅慮しか持ち合わせていないであろうことは明白で、そんな鼻元思案が透けて見えるから、僕は本作の監督と脚本家に対して怒髪天を衝く勢いで憤怒し、殺意を抱くのだ。エンドロールが流れ始めた瞬間、僕はすぐに映画館を後にして、IMDbで本作の監督と脚本家の名前を調べた。スマホの画面に写った小綺麗なポートレートに激烈たる殺意を抱いた。</p>
<p>映画と言えど、業界人にとっては仕事である。</p>
<p>お客様は神様とは思わないし、金さえ払えば何を言っても許される権利があるとは思わないけれど、それでも、映画を愛する観客たちを蔑ろにするのは許せない。</p>
<p>ミスター・ミヤギがシリーズ4作を通して説いたのは、「心の在り方」だった。カラテとは正しい心を涵養するための修行であり、本当の強さとは肉体的な頑健さではなく、泰然自若とした平常心である。これがミスター・ミヤギの説く「強さ」だった。</p>
<p>観客の心を蔑ろにし、劇中人物たちの感情を矮小化し、「強さ」の在処を肉体的な強さに依拠した本作は、『ベスト・キッド』シリーズの最も大切な美点＝心の大切さを踏みにじった。「心」よりも「肉体的な強さ」を尊び、それによって本作は『ベスト・キッド』シリーズの精神性すらも断絶させた。</p>
<p>これは単なる駄作ではない。</p>
<p>駄作・クソ映画とは、映画の技巧的な面が拙劣な映画を指す。</p>
<p>本作は違う。技巧的な面だけでなく、シリーズの精神性すらも矮小化して破壊した。</p>
<p>そんな作品を『ベスト・キッド』シリーズの名を冠して世に送り出すということは、恥も外聞もなく、これがシリーズ6作目だと銘打って銀幕に書けるということは、シリーズの自害宣言──興行に成り果てた三島由紀夫の割腹自殺と同じである。</p>
<p class="noind">『コブラ会』が終焉を迎え、ノリユキ・パット・モリタ氏が逝去した今、『ベスト・キッド』シリーズは死んだのだ。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>オジーとメガデス</title>
    <link>https://indi-visual11.com/ozzy-and-megadeth/</link>
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    <pubDate>Tue, 26 Aug 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>音楽</category>
    <description>人は16歳の頃に聴いた音楽を一生聴き続ける</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>人は16歳の頃に聴いた音楽を一生聴き続けるという。</p>
<p>10年前、Spotify無料ユーザーの広告で流れた音声CMの言葉が、今でも時たまふと脳裏によぎることがある。本当に？という猜疑心を拭いきれないけれど、この言葉を知ってから10年余経過した今になっても、僕は本当に心の底からリラックスしている時、僕が慰みに流す音楽は決まって思春期にヘビロテしたJ-POPかアニソンで、結局そういうことなんだろうなと、エビデンス不詳（研究者の論文でも未だ決定打には至っていない）なこの言葉をヒューリスティックな得心で噛みしめる。</p>
<p>1ヶ月前、オジー・オズボーンが死んだ。Xを開いた時、オジーの訃報が目に入った時、フェイクニュースかと思った。それぐらい、彼の死は真実味に欠けていた。コウモリをかっ喰らい、ヘヴィ・メタルの始祖ブラック・サバスのフロントマンであり、スラム街から成功を掴み取ったメタルの帝王でも死ぬんだと、当たり前の道理に気づくのに、それを理解するのに1日を要した。此岸のすべての憎悪/殺意を煮詰めたようなパフォーマンスをたった一人で発揮するメタルの帝王＝オジー・オズボーンは不滅だと、僕は勝手にそう認識していたように思う。それぐらい、オジー・オズボーンの存在は異質だった。これまでずっと「神」のような、この世の理を超越した存在だと信じて疑わなかったオジーは、死を迎えたことで人間であることを証明した。</p>
<p>先週、親友から唐突にLINEが来た。「メガデス活動停止やって。最後のライブ絶対行きたいよな」
会社の昼休みに目にしたこの一文に、目眩がするほどのショックを受けた。メタリカ、メガデス、アンスラックス、アナイアレイター、ソドム、エクソダス、クリーター、ジューダス・プリースト、アイアンメイデン、ハロウィン…細分化が進み、群雄割拠するヘヴィ・メタルという混沌としたジャンル空間において「神」に等しい地位にあるベテランバンドたち。その中でもメガデスだけは特別だった。少なくとも僕にとっては特別なバンドだった。そのメガデスが活動を終えるという単純明快な事実が、親友からのLINEを開いて数日たっても受け入れられなかった。喉の奥に魚の小骨が引っかかったように、胸中で燻り続けていた。</p>
<p class="noind">「そうか…メガデスでも老いるんやな…」
そんな至極当然の事実を受けれるのに数日を要した。</p>
<p>タワーレコードの明快かつ簡素なキャッチコピー「No Music No Life」──目にするたびに、秀逸なコピーだとしみじみ思う。音楽な無ければ、人はどうやって生きていけばいいのだろう。もちろん世の中には音楽に救済も依存も求めないメンタル・タフネスな人たちが一定数存在するのだけど、少なくとも僕は音楽が無ければとっくに自害していると思う。</p>
<p>音楽って何なんだろうか。</p>
<p>オジーの訃報とメガデス活動休止の一報を聞いて、そのショックと向き合いながら僕が聴いていたのはカントリー・ミュージックとVaundyで、もうメガデスの楽曲を必要としていない自分に気がついて、それは10年前の過去の自分との訣別を物語っているような気がして、意味もなく凹んだ。</p>
<p>自意識の芽生えと共に音楽にのめり込み、これまでの人生で2度も音楽に命を救われた僕にとって、音楽とは東京タワーのように、「そこにあって当たり前」の存在であり、自身の心的態度が辿ってきた変遷でもあるのだと、2週間ばかりの時間を経て思い至った。</p>
<p>記憶を遡れば、常に音楽があった。
聴いているジャンルもバンドも年齢によって変遷したけれど、その変遷こそ、音楽と共存してきた僕の人生の軌跡であり、その変遷が今の僕を形づくっている。</p>
<p>名は体を表すというけれど、僕のハンドルネームはメタリカに由来している。命名したのは、メガデス解散の悲報をLINEしてきた親友なのだけど、僕はメタリカに命を救われたその時から、一生崇め続けると心に誓った。僕にとってメタリカは「好き」とか「推し」の次元を超えていて、崇拝/信仰する対象＝神と同等なのだ。</p>
<p>そして、僕にとって「神」であるメタリカと引き合わせてくれた「使徒」こそ、唯一無二のメタルバンド「メガデス」だった。メガデスは僕にとって仲人だった。だからメガデスの活動休止を聞いた時、僕はこんなにショックを受けたんだな、と後日気がついた。</p>
<p>当時働いていたバーの常連さんに某新聞社の管理職の方がいた。くぐもった声で朴訥と喋る、プーさん
みたいな容姿の壮年男性で、彼がいつもと変わらぬ朴訥とした口調で仕事の毒をさらっと吐きながら酒の入ったグラスを呷るのが、その常連さんのいつもの光景で、アルコールを摂取しながらガス抜きをしているその光景が、オフィスでは出せない「影」の顔を見せてくれるニヒルな会話が、僕はたまらなく好きだった。</p>
<p>彼との会話は楽しかったし、バーに訪れる常連さん達も好きだったし、店も好きだった。ただ、この頃の僕は生きる意味を喪失していた。ただひたすらに、死にたかった。ただ食べるためだけに、1日14時間も“接客モード”というペルソナを被る仕事から、下心丸出しのサラリーマンがホステスを口説くのを延々と見せつけられる日常から、映画監督になりたいという夢に敗れた自分自身から、とにかく逃げたかった。人生に意味なんてないと本気で思っていた。社会人になって1年余経った頃、いつもどおり仕事を終えて帰宅した僕は、台所の薄暗い蛍光灯の下で、スーパーで買った1000円ちょっとの包丁を手首に押し当て、死のうとしていた。</p>
<p>大学受験という勉強から逃げ出して専門学校に逃げ込み、専門学校で繰り返される惰性的で受動的な授業から逃げ出し、映画監督になりたいという夢にも破れた当時の僕には何もなかった。空っぽだった。生きる意味がないのなら、別に死んでも何も変わらないんじゃね？ 本気でそう思っていた。</p>
<p>包丁を手首に押し当てると、日焼けしていない青白い肌に薄っすらと血が滲み、ふと両親の顔が頭をよぎった。一人息子の僕が死んだ後の両親を想像すると、死にきれなかった。いや、それは体の良い言い訳に過ぎず、僕には結局、自害する勇気すらなかったのだ。人を殺す気魄もなければ、自害する度胸すらない。その「何も無さ」に気がついて、自己嫌悪がいや増した。</p>
<p>仕事から帰宅して台所で包丁を見つめる日々がしばらく続いた。そんな折、プーさんのような容姿の彼からLINEが来た。</p>
<p class="noind">「音楽聞く？」</p>
<p class="noind">「聞きますよ！」</p>
<p>今から死のうとしているのに、しっかり1分以内に返信し、感嘆符まで付けて感情を担保している自分に自嘲がこぼれた。「何やってんだろ、俺…」死にたい自分と思考停止で仕事モードに入る自分が、量子もつれのように乖離し、浮遊していた。</p>
<p class="noind">「これ聞いてみ。明日店行くから」</p>
<p>1分以内に返した僕のLINEに数秒で返信が来て、この人、寂しいんだろうなと、死にたいモードの自分が客観視し、仕事モードの僕が「とりま聴いてみます！」と返信を打ち込んでいる。</p>
<p>そうしてプーさんから送られてきたApple Musicのリンクを飛んだ先にあったのが、メガデスだった。</p>
<p>歌詞は英語だし、キーキーうるさいし、風邪にかかったような鼻声のヴォーカルだし、何の曲か分からなかった。けど、こんな激しい音楽がこの世にあることを、僕はこの瞬間はじめて知った。何かに取り憑かれたように超人的な速度でかき鳴らすギターリフ、肺腑を震わせるブラストビート。何の曲なのか、何を歌っているのか、さっぱり分からなかったけど、曲に宿った強烈な「殺意」だけは痛いほどに理解できた。</p>
<p>なに？ なんで自分のストッパーかけてんの？ え？ 世の中に不満あるんでしょ？ なんで怒らないの？ 怒っていいんだよ？ てかそのモヤモヤ抱えたまま、どうするつもりやったん自分？ 俺らこんなに世の中にブチギレてんのに、なんでお前死のうとしてんの？ 怒れよ。殺せよ。モヤモヤしてるの、全部ぶっ殺せよ。俺ら見てみろよ。キレたら駄目とか、誰基準よ、それ。ムカついてんだろ？ 殺せ。怒れ。戦えよ。</p>
<p>BPM90ぐらいのチルでムーディーでポップな音楽しか聴いたことのなかった僕にとって、初めて触れたヘヴィ・メタル、メガデスの楽曲は自分の置かれた状況すべてを肯定してくれる気がした。死のうとしているのは「逃げ」だった。どうせ逃げるなら、殺意むき出し・生存本能むき出しで闘ってから死ねと、英語の歌詞で意味も分からなかったけど、メガデスの楽曲は僕をそう焚き付けていた。</p>
<p>キレていいんだな。死ななきゃ何してもいいんだな。激烈を極めるメガデスの代表アルバム『』を聴きながら、僕は知らぬ間に自縄自縛していた自己を解放していた。気づけば、自意識が芽生えた思春期の頃からずっと、常に他人の目を気にしていたような気がする。高校の教室では、本心では陽キャたちを羨望しながら、自分はオタクだというちっぽけなアイデンティティに依拠し、社会人になってからは上司や会社にどう思われるか、いかに迷惑をかけないかに腐心してきた。自分の居場所がない、人生に意味がない…そうやって、真綿で首を絞めるように、じりじりと自分を追い込んでいたのは僕自身だった。</p>
<p class="noind">「メガデスやばくないですか！？ トルネード・オブ・ソウルズの終盤1分ぐらいのギター・ソロ、なんであんなの考えつくんですか？ 初めて聴いた時マジで脳みそ焼き切れそうになったんですけど」</p>
<p>半分はサービス混じりの接客トークで残りの半分は本心で翌日、僕はプーさんにメガデスに初めて触れた衝撃をカウンター越しに熱く語っていた。</p>
<p>そこからは早かった。メガデスを起点に、ヘヴィ・メタルの主要バンドをほぼすべて聴き、僕はメタルに夢中になった。仕事をしている以外の時間、寝る時も、風呂に入っている時も、スーパーで買い物している時も、出勤/退勤時も、僕はつねに爆音でヘヴィ・メタルを聴くようになった。メタルを聴いていないと、また希死念慮に襲われそうで、その恐怖を打ち消すために、僕は爆音でメタルを聴き続けた。</p>
<p>結局、そのあと数年の間に、2回ほど「死にたい…」という発作的な衝動に駆られたのだけど、その時僕を救ってくれたのはやっぱり音楽だった。最初はメガデス、2回目はメタリカ、3回目はフー・ファイターズ。</p>
<p>バンドは異なれど、音楽の持つ治癒効果に、その言語を超えた肌感覚的なメッセージ性に僕は救われてきたのだと思う。そもそも、メタリカの存在を知ったのはメガデスを通してだった。テクニカルな演奏が持ち味のメガデスを最初に聴き、Apple Musicのレコメンド機能でメタリカの存在を知った僕は、初めてメタリカの「Nothing else matters」を聴いた時、「なんやこのヌルい曲」という感想しか抱かなかった。メタルといえば激しさ/激烈さこそ至上であり、マスターベーション的なギターリフこそメタルの本懐だと、当時の僕は信じて疑わなかった。</p>
<p>そうして、ファーストインプレッションが最悪だったメタリカの名曲『Nothing elese matters』に、数年後僕は救われた。希死念慮に襲われ、2度目のリストカットを試みていた時、『Nothing elese matterd』＝他のことはどうでもいい。という歌詞を聴いているうちに、「あ、死ななきゃ何してもいいんだった」という思いが湧き、生きることした。</p>
<p>3度目の希死念慮に捕らわれた時も、似たようなものだった。ウイスキーをガブ飲みし、酸欠寸前のように顔を真っ赤にしながらセトリを歌い上げるフー・ファイターズのライブパフォーマンスをYoutubeで観ているうちに、「あ、生きよう」と思えた。</p>
<p>歌詞の意味も、曲・アルバムのテーマも、後日調べてようやく「ふぅーん」程度の感想しか抱かなかったけれど、いずれにせよ音楽によって僕は救われた。</p>
<p>初めて希死念慮に駆られて時から10年を経た今、僕はかつてのようにヘヴィ・メタルに依存はしていない。チャペル・ローンも聴けばSIAも聴くし、藤井風も、Vaundyも、アニソンもボカロも聴く。かつてのように仕事中以外のすべての時間、ヘヴィ・メタルを爆音で聴かなければ生きられないほどのナイーブさは、もう無い。アヴィーチーやアラン・ウォーカーの電子音楽でしか表現できない美しさに感じ入り、活動再開したマイ・ケミカル・ロマンスやリンキン・パークのタフネスに感動し、時折思い出したようにメタリカを聴いている。</p>
<p>自己嫌悪や外部環境への不満をヘヴィ・メタルという音楽に託つけて反発するフェーズはとっくに過ぎていて、30路に差し掛かった今の僕は、J-POPや北米/英国のヒットチャートを聴きながら、殺意と寛容の間で揺れ動き続けている。本当の強さとは「優しさ」であり、そうは言っても言葉の通じない相手がこの世の中には一定数たしかに存在して、そういう連中には剥き出しの殺意で立向かえばいい、というヘヴィ・メタルとオルタナティヴの折衷案ような生存戦略を取れるほどには自己分析ができるようになった。</p>
<p>思えば、自意識が芽生え始めた頃から常に音楽があった。</p>
<p>ミレニアム時代のオルタナロックからヘヴィ・メタルを経由し、POP/EDM/オルタナティヴへと変遷した僕の狭隘な音楽史は、音楽と共に生きてきた僕自身の経歴書なのかもしれない。</p>
<p>かつてモービーは言っていた。</p>
<p>音楽は実態を持たない唯一の芸術形態だ。</p>
<p>言語も文化も国境すらも超越する音楽とは一体なんなんだろう。</p>
<p>完全にリラックスしている時、静寂を埋めるためだけに音楽を流す時、気がつけばYoutubeで2000年代のエロゲ/アニメソングを再生してまう僕は何なんだろう。</p>
<p>言語や論理を超越した魂レベルで共鳴するアンセム──すべての音楽とは、言語を超越した言語、剥き出しのプリミティブな感情なのかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>お盆</title>
    <link>https://indi-visual11.com/obon/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-obon</guid>
    <pubDate>Mon, 18 Aug 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>死は別れじゃない</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p class="noind">「灰皿どこ行ってん…」</p>
<p>お盆休み、半年ぶりに新大阪駅に降り立った僕の口から、思わず漏れた一言がそれだった。</p>
<p>新大阪駅の新幹線のホームを降りると、すぐ目の前に申し訳程度の狭隘な喫煙ルームが用意されているのだけれど、休暇シーズンには長蛇の列ができる。たかが一服するためだけに、どうして並ぶ必要があるのか。アホらしい。だから僕は帰省時、新大阪駅に降り立つたびに、駅舎の喫煙ルームにできた長蛇の列を嗤笑しながら、駅舎の外にある喫煙所へ向かう。駅舎の外、ロータリーに設置された喫煙所は目立った案内表示もないためか、いつ利用しても比較的空いていることが多いからだ。同じ規格・同じ色に統一された没個性的なタクシーが居並ぶ新大阪駅のロータリー。そこに喫煙所があった。今までは。</p>
<p>いつもの習い性で駅舎を出ると同時に着火・一服した僕の目の前にあるのは灰皿ではなく、デザインセンスの欠片もない万博マスコットキャラクター、ミャクミャクの掲示板だった。その掲示板に禁煙マークをプリントした注意書きが貼られていた。</p>
<p class="noind">「ここでタバコを吸わないでください」</p>
<p class="noind">「じゃあ、どこで吸えと？」</p>
<p>内心、喧嘩腰で食って掛かる僕を宥めるように、くだんの注意書きの隣に喫煙所の位置を記した案内図が記載されていた。</p>
<p class="noind">「⇒徒歩200ｍ」</p>
<p class="noind">「舐めとんな…」</p>
<p>案内に従って炎天下の中200ｍ歩きタバコすると、駅舎の端部、御堂筋線の線路の脇に新設された喫煙所はあった。</p>
<p>クソ暑い中キャリーケースを牽引して200ｍも歩いた僕の上半身はすでに汗ばんでいて、お気に入りのTシャツが上半身に吸い付く。新設の喫煙所で紫煙を吐き出しながら、新大阪駅のランドマーク、ダイキンの温度計を見つめていると、ようやく帰省したという実感が湧いてきた。</p>
<p>年始に帰省した時には、ロータリーに喫煙所があったというのに、たった8ヶ月で万物が流転していた。</p>
<p>変化していたのは喫煙所だけじゃない。新大阪駅の新幹線のホームには万博オフィシャルショップなるものが出店していて、「こんなもん、誰が買うねん」と内心毒づいていたら、これがけっこう並んでいて開いた口が塞がらない。新大阪駅からJR線で大阪駅へ、大阪駅で環状線に乗り換えて天王寺へ。その道中・車中の至る所に万博関連のポスターが掲載されていて、評価は毀誉褒貶しているけれど、それなりに盛況そうで安心する。大阪駅北側の再開発はいつの間にかすっかり完工しているし、JR大和路線の車内アナウンスは印旛ウド需要を意識したのか、新録した英語音声に変わっている。たった8ヶ月で、すべてが変わっていて、久方ぶりに帰省した身には、それらの変化が新鮮で、それと同時に言いしれぬ哀しさが込み上げた。</p>
<p>目まぐるしく移り変わる変化に少なからずショックを受けた僕は、最終目的地のJR大和路線 王寺駅のホームに降り立った。万博一色に染まった大阪とは打って変わって、王寺駅のロータリーは幼少期の原風景そのままの姿でそこにあって、その何も変わってない「変化してなさ」がすごく心地良い。</p>
<p>こうして、僕のお盆休みが始まった。</p>
<p>お盆──先祖の御霊が帰って来る、というだけの理由で日本全国が一斉に社会機能を停止し、那由多の人間が家郷めざして民族大移動を開始する。「盆と正月ぐらい」という定型文が示すとおり、よほどのブラック企業か休暇シーズンを繁忙期とするサービス業でもないかぎり、「お盆」くらいは休暇を取ろう、というのが社会通念として浸透している。冷静に考えてみれば卦体な話だ。</p>
<p>ご先祖様の霊魂が帰ってくるから、僕たちも故郷へ帰省する。ご先祖様の御霊を自宅に迎え入れ、感謝し、供養する。そのために、日本国民が一斉に民族大移動を始める。</p>
<p class="noind">「お盆」のルーツはインドの仏教説話に遡る。釈迦の弟子である目連（もくれん）が、餓鬼道に落ちた亡き母を救うため、釈迦の教えに従って僧侶たちに供物を捧げた。この「目連救母」のエピソードが中国から日本へ伝来し、日本の土着的な先祖崇拝と癒着したことで現在の「お盆」の慣習は確立された。</p>
<p>初詣や年越し蕎麦と同様、「お盆」もまた、そのルーツに自覚的な現代人など少数派だろう。当初の目的も意義も希薄化し、行為だけが習慣として根づき、今日まで連綿と受け継がれてきた「お盆」──盂蘭盆会（うらぼんえ）</p>
<p>目的も意義も失って尚、かくも多くの人間を一斉に動かすことができる「習慣」の力が空恐ろしい。微々たる水滴が長大な時間をかけて岩盤を削り、鍾乳洞ができるように、遠大な時間何度も何度も繰り返されてきた集積の結晶。幾星霜の時を経て、時間によって鍛造され、ルーチンとして固着化したもの。それが習慣だ。それはロマンティックな見方をすれば、遠大な時の試練を経た先達たちの遺産であり、ニヒリズム的な見地に立てば、「ただなんなとく、そういうもんだから」という惰性的な動機からマジョリティが取る行為である。</p>
<p>習慣は、圧倒的大多数が従う。習慣から逸脱した者は好奇の目で見られがちだ。そういう点で、習慣とはある種の規範と言える。</p>
<p>考えてみれば、この社会には規範（ルール）が無数にある。エミー賞など海外の賞を総なめにした“海外”ドラマ『SHOGUN 将軍』でアンナ・サワイ演じる鞠子様は、コスモ・ジャーヴィス演じる異邦人 按針に言う。「この国には無数のルールがある。すべてに意味が内包されている」と。</p>
<p>お盆休みの中日、僕は両親と一緒に神社に参拝した時に、そのセリフを思い出した。</p>
<p>奈良県御所市にある一言主神社。一言主神社は全国津々浦々に点在しているが、奈良県御所市にある一言主神社はその総本山だ。奈良盆地の端部、葛城山の麓に位置する。山を越えれば大阪府 河内長野市がある。一言主大神──その名のとおり、一言だけ願いを叶えて下さる、という神様が祀られている。</p>
<p>父が停めにくい駐車場に愛車を駐車すると、目の前にクセのある書体で大書された注意書きが目に入った。</p>
<p class="noind">「鳥居をくぐってからお参りしてください」</p>
<p>鳥居は本殿とは真逆の方向、駐車場から少し離れた場所にあって、降車した僕たち家族3人は注意書きに従って駐車場を本殿とは逆方向に戻っていく。わざわざ戻って鳥居をくぐる。僕は浅学だから神道に明るくないのだけれど、わざわざ駐車場の目に付く場所に神社の関係者が注意書きを掲げているのは、長い歴史に基づく伝統＝習慣＝規範＝ルールがあるからだろう。</p>
<p>鳥居をくぐってからお参りすること。鳥居をくぐる時は一礼すること。鳥居の右側を通る時は右足から、左側を通る時は左足から踏み出すこと。お賽銭を入れて二礼二拍手一礼すること。御神籤を引くときは、参拝時にその旨を神様に伝えること等等。神社ひとつ、神道ひとつとっても目に見えない無数のルールがあって、それら一つひとつに歴史に裏打ちされた確固たる根拠が用意されている。鞠子様の言うとおり、日本とはルールの国なのかもしれない。</p>
<p>家族揃って本殿に参拝すると、母が思い出したようにぽつりと呟いた。</p>
<p class="noind">「御神体が一段高い場所に祀られてる神社って、“格”が高い神社なんやって」</p>
<p class="noind">「へぇ、そうなん？」</p>
<p class="noind">「そうらしいで。本に書いてあった」</p>
<p class="noind">「ふぅーん」</p>
<p>神社の境内に設置された案内板に書かれていないトリビアを母が披瀝し、それに対して、僕が気のない返事を返す。齢60を超えて尚、少女のような繊細さと感性を持ち合わせた母は神道や仏教が大好きで、その手の本を乱読しているのだ。寺社仏閣を巡るたびに、母はそういう本で得たトリビアを僕に教えてくれる。僕が本を読み始めたのも、本が好きなのも、母の影響だと思う。おそらく母は、物語や神様や仏様といった、目に見えないもの、想像力を介さないと触れられない領域に惹かれているのだと、実家を出て、母と距離を置くようになってから初めて気がついた。</p>
<p>一言主神社の境内には、参拝の順番が丁寧に掲示されていて、僕たち家族3人はその順番に従って参拝した。参拝の順番にも「決まり事」がある。どこもかしこもルールだらけだ。</p>
<p>エスカレーターに乗る位置だって、近畿圏とりわけ大阪近郊は右側、それ以外の全国は左側という不文律がある。どうして大阪だけ右側なのか。これには諸説あるが、その一説によると、20世紀の大阪万博の時に国際仕様を踏襲したからだ、ということらしい。ホンマかいな。</p>
<p>エスカレーターのルールひとつとっても、歴史がある。過去の中に根拠があり、現在という習慣がある。時間を超えた因果関係。それが習慣だ。僕の実家では、家族全員が入浴を済ませないと、お酒を飲まないというルールがある。最初に父が入浴し、途中から母が入り（そう、還暦を過ぎても僕の両親は混浴している。これが僕はすごく微笑ましくて、愛おしい）、最後に僕が入る。そうして、家族全員が風呂に入り終わるまで、父も母も缶ビールを開栓しない。</p>
<p class="noind">「はよビール飲みたいから、はよ風呂入って」</p>
<p>こうして文字にすると論理的に無茶苦茶なのだけれど、これが夕飯時の母の常套句だ。</p>
<p>ふだんは意識しないだけで網目のように張り巡らされた数々のルール。エスカレーターのような日常空間から寺社仏閣という非日常空間、さらには各家庭の中にも無数のルールが敷き詰められている。</p>
<p>そんな遍在する規範＝ルールを改めて考えさせられたのは、お盆休みの終盤、四天王寺にお参りした時だった。</p>
<p>4年前、祖母が亡くなった。気難しくて、変わり者で、つねにタバコを手放さなかった祖母。女手一つでぼくの母を育てあげ、何度も離婚と再婚を繰り返し、晩年は株式投資に血道を上げていた祖母が大好きだった。いや、祖母が好きだという情念をはっきりと自覚したのは、祖母が亡くなった時だった。愛情も、気遣いも、お小遣いも、百科事典並みのバリエーションで不平不満文句を並べ立てながら犬の散歩を僕の代わりにやってくれたことも、深夜まで映画を見ていると心配して声を掛けてくれたのも……何もかも与えてもらってばっかりで、結局、祖母には何も「お返し」することができなかった。</p>
<p>軽度の認知症を発症してから老人ホームに入った祖母は、死ぬ間際までタバコを吸い続け、孫の僕に「今度はいつ会えるんや。はよ顔見せてや」と繰り返し言っていた。けど、COVID-19のパンデミックが起きて、祖母の居る老人ホームに行くことが難しくなった。20歳から都合6年間努めたバーテンダーからゲーム会社のシナリオライターに転職した僕を、祖母は言祝ぎ、新居用にと100万円を僕の口座に振り込んでくれた。結局、その御礼を直接伝えることもできないまま、祖母はあっけなく帰らぬ人となった。</p>
<p>何もかも、与えてもらうだけで、結局なにも祖母に「お返し」できなかった。その強烈な後悔が湧いてきたのは、祖母の骨壺を抱いて霊柩車に乗っている時だった。霊柩車の車内から見た、慣れ親しんだ地元の風景。どこに目を向けても祖母の姿が、祖母の記憶があった。祖母とも二度と会えないのだという実感が、この時はじめて湧いた。物心ついた時からずっとそばにいて、日常の光景と同化していた祖母の存在が、こんなにも大きかったのだと、失って初めてわかった。もう会えないという冷徹な現実が、痛いほど胸に突き刺さった。祖母に愛着が湧いたのは、祖母が亡くなってからだと思う。Amazonオリジナルドラマ『ザ・ボーイズ』でメインキャラクターのひとりMMが言うセリフ。</p>
<blockquote>
<p>「オヤジのクセが嫌いだった。
日曜学校が終わってから、アイスクリーム屋に行くのが習慣だった。
オヤジは店に並んだアイスクリームを全部味見するんだ。
どんだけ人が並んでいようがお構いなしさ。
オレはオヤジのそのクセが大嫌いだった。
けど今は寿命を１年削ってもアレが見たい」</p>
</blockquote>
<p>初見時は素敵なセリフだな、程度にしか感じなかったこのセリフが、祖母の葬儀を経て、確かな実感を伴って胸にすとんと落ちた。今の僕は、自分の寿命を削ってでも、祖母に会いたい。</p>
<p>帰らぬ人となった僕の祖母の遺骨は、四天王寺に埋葬された。</p>
<p>実家に帰省するたびに、僕は母とふたりで四天王寺にお参りする。</p>
<p>大阪は天王寺区に位置する四天王寺。あべのハルカスや高層マンションが林立する整理された区画の中に、広大な寺院がある。洗練され、近代化された都市空間と寺社仏閣が同居する様は、なんだか不思議な感じがするけれど、絶対面積が狭い東京ではよく目にする光景だ。ただ、四天王寺の場合、その敷地がアホみたいに広い。しかも、あろうことか、境内の中に四天王寺という同名の学校があるのだから驚嘆する。祖母の“推し”だった宝塚スター柚希礼音も四天王寺高校の出身で、祖母自身も四天王寺高校の卒業生だ。祖母の実家は四天王寺のすぐ隣にあった。祖母にとって、四天王寺界隈はパーソナルな意味を帯びた場所なのだ。</p>
<p>四天王寺には「経木流し」という供養がある。経木という木の板に先祖の御霊の戒名を書き、お坊さんに念仏を唱えてもらってから、その経木を亀の形をした水に流す、というものだ。なぜ亀なのか。なぜ、亀の形をした溜水に経木を流すと供養になるのか。僕は浅学だから知らない。だが、これも四天王寺の歴史と伝統──遠大な時間を経て築かれた伝統に基づく実行手順《プロコトル》。だから僕はそれに従う。ここにもルールがあり、規範がある。</p>
<p>先祖の御霊の戒名を経木に書く行為は、先祖の御霊の戒名を書いた小冊子に基づいて行われる。自分が会ったこともない遠い先祖の戒名が10人も記された小冊子。死者の名簿。四天王寺に参拝し、母が死者の名簿を取り出すたびに、僕はそこに書かれた顔も知らぬ遠い先祖に思いを馳せる。</p>
<p>数ヶ月前、今年最高の創作物《クリエイティブ》と出会った。小島秀夫監督のゲーム『デス・ストランディング2』である。依頼人に荷物を運ぶ──ゲームとしては“配達”ゲームなのだけれど、用意された世界観はおよそゲームの範疇を超えていて、つまるところ「死者と生者」の世界観なのだ。</p>
<p>生きている人間は、死者に祈ることしかできない。残された者は、旅立った死者に祈ることで自己を慰め、肯定する。そうして、不可逆的な「死」と折り合いをつけることで、ようやく前に進むことができる。『デス・ストランディング2』で用意された世界観は、この死者とどう折り合いをつけるのか、という遠大な問いを孕んでいて、依頼人に荷物を届けるというゲームを成立させる、その動機づけのためだけに、かくも深遠な世界観を用意する小島秀夫監督の手腕に、僕は直近数年で一番感動した。</p>
<p>おそらく、今年の残り、どの映画を観ても、ドラマを観ても、僕は『デス・ストランディング2』と比較して、そのたびに絶対的な完成度の高さを再確認することになるのだろう。『デス・ストランディング2』をプレイして以降、映画を観てもドラマを観ても、感覚が麻痺しているせいか、たいした感動がない。心の躍動がない。それほどまでに『デス・ストランディング2』という作品は完成されている。いや、完成され過ぎていると言っても過言ではない。</p>
<p class="noind">『デス・ストランディング2』の劇中、何度も反復されるメッセージ。「死は別れじゃない」──そう、死は別れじゃない。もう二度と会うことは叶わないけれど、死者の魂は、僕たち生者を見守っている。僕たちは、それを感じることも触れることもできないけれど、死者の魂はつねにそこに居て、僕たちを見守ってくれている。自然の成り立ち・法則を余すこと無く記述した万物理論を構築可能な量子コンピュータが実現されれば、それが実証可能になるかもしれないけれど、哀しいかな今の僕たちに死者の魂を感じ取ることはできない。それでも、死者が、死者の魂が僕たちを見守っていると、そう信じることができるのは、人間の想像力が働くからだ。</p>
<p>人間は想像力を介して死者と繋がることができる。</p>
<p>四天王寺の経木流し──亀の形をした水たまりに戒名を記した経木が流れていく様を見て、僕はふと思った。夏のアルバイトで雇われたであろうネイルと化粧が印象的な若い女の子2人が、長い棒を使って経木を溜水に押し流す。これで死者を供養できると信じることができるのは、そこに人間の想像力が働いているからだ。</p>
<p>おそらく人間は古来より、そうして想像力を媒介することで死者と触れ合おうと、目に見えない、もう帰らぬ人に追い縋ろうとした。想像力を介した死者とのコミュニケーション。目に見えないものに触れようとする、時空を超越したコミュニケーション。それは生者の魂と想像力を媒介する。</p>
<p>20歳前後の若い女の子が機械的な手つきで押し流す祖母の戒名が書かれた経木を見つめながら、僕は想像力を介して祖母と繋がっていた。想像力を介して日常から、現実から離脱し、別の世界に思いを馳せる。それは映画や小説、ゲームといった創作物に触れた時の体験と通底する。想像力を介して、「ここではないどこか」に意識を飛ばす──暴論すれば、すべての人間はひとつの“物語”であり、死者の魂とは、永遠に終わることない物語のエピローグなのかもしれない。</p>
<p>そんなロマンチシズムに過ぎる思いに駆られながら、実家を後にした僕は東京の自宅に帰っていく。この文章は日暮里から発車した京成線の中で書かれている。徹底的に合理化/効率化され、意味化された記号が集積した東京の街並み。所狭しと蝟集する住居/ビル/商業施設/人──それらを望む東京スカイツリー。かくして僕は「日常」に戻っていく。</p>
<p>あと何回、両親に会えるんだろうか。お盆と正月。1年に2回会うとして、10年間で20回。会う前は色々と話ことが浮かぶけれど、いざ実家に帰ると「うん」とか「ふーん」とか、言葉ですらない生返事しか出てこない、この理想と現実の落差が隔靴掻痒このうえない。あまりにも長い時間を過ごした両親となら、こうした生返事ですら言外のコミュニケーションが成立してしまうから始末が悪い。</p>
<p>溢れんばかりの思いに反して、口をついて出る言葉はその100分の1以下で、その歯がゆさを噛み締めながら、お盆休み中に感じたこと・思ったことを忘却したくなくて、この文章を書いている。親子関係とは、こんなものなのだろうか。兄弟のない一人息子の僕には、分からない。いや、この生返事でコミュニケーションを成立させようとすることそれ自体が、大人になった僕の、親に対する「甘え」なのだろうか。</p>
<p>年末年始、帰省する時までには、自分なりに答えを見つけたいと思う。</p>
<p>明日から、日常が始まる。郷愁に後ろ髪を引かれるけれど、これも「甘え」なんだろうか。<br><span class="ind"></span>だとすれば、僕はまだ全然「おとな」になりきれていない。</p>
<blockquote>
<p>すべてを忘れてしまったら存在しないも同然だ。記憶と忘却、それを我々は想像力と呼ぶ。<cite class="quote-source">— ボルヘス</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>白雪姫</title>
    <link>https://indi-visual11.com/snow-white/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-snow-white</guid>
    <pubDate>Sun, 23 Mar 2025 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>批評とは、人を褒める特殊な技術だ</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>今日も今日とてYoutubeは大賑わいだ。ここ数日、映画系Youtuberのトレンドはもっぱら『白雪姫』で、猫も杓子も異口同音に「酷評」を陳情している。どうして公開前から地雷だと分かっている作品を観て、わざわざ酷評するのか、『室井慎次』が公開された頃にはさっぱり分からなかったのだけれど、最近ようやく「酷評」すれば再生数が稼げるらしい…という実態を知った。</p>
<p>僕もYoutubeをやっている同じ穴のムジナなのだが、近頃とみにYoutubeが息苦しい場所に感じられてならない。元来、ブログで「テキスト」を用いて書いていた映画の感想を動画としてパッケージングするだけで不特定多数の視聴者が反応してくれる。中身（コンテンツ）は同じなのに、装い（パッケージ）を変えるだけで反応が桁違いに増進する。なんとも不思議な世界だなと、チャンネルを開設した当初はそう思っていた。</p>
<p>そしてチャンネル開設から1年余を経た今、Youtube界隈の実情がだんだんと分かってきた。Youtuberの至上命題は1つしかない──チャンネル登録者数や再生数といった数値をどれだけ高くできるか。全てが数値に還元されるプラットフォームで、いかにハイスコアを狙えるか。再生数や登録者数、あるいは収益。これらの数値をいかに効率よく、確実に獲得できるか。まるでゲームだ。</p>
<p>予告編の段階からすでに面白くないと分かりきっている地雷映画をわざわざ高い木戸銭を払ってまで観に行って酷評するのは、それが最も効率的にハイスコアを狙える戦術だからだ。2000円の木戸銭ぐらい、1つの動画の収益でリクープできるから問題ない。おそらくそういうことだろう。</p>
<p>ことほどさように、Youtubeを取り巻く状況は、玉石混交の企業が繰り広げる資本主義のゲーム──利益至上主義のビジネスと相似形を帯び始める。余暇の時間を使って趣味として動画を投稿しているのに、その余暇の時空間にも仕事の影がちらついて見える。これがなんとも息苦しい。</p>
<p>この息苦しさを解消する方策を今年に入ってから色々と模索していたのだけれど、最近、諦めた。</p>
<p>長いものには巻かれろ。押してダメなら引いてみろ。Youtube＝プラットフォームとその経済スキームを変えられない以上、Youtubeという土俵に上がった僕はそれに唯々諾々と従うよりほかにない。いくら体制に異を唱えても何も変わらないし、変えようがない。だから僕は、ジョージ・オーウェルの小説『1984』のごとく、二重思考《ダブルシンク》を決めこむことにした。体制に従いながら、体制に対して心の奥底では中指をおっ立てる。ザ・クラッシュのジョー・ストラマーが言ったように、「punk is attitude not style」である。デジタル・レーニン主義をサバイブする処世術。それは二重思考だと思う。</p>
<p>そんなふうに、Youtubeをクソ喰らえと思いながらも、いまだ性懲りもなく動画を投稿し続けているのは、常連さんとのコミュニケーションが楽しいからだ。類は友を呼ぶという慣用句が本当なのか分からないけれど、僕のチャンネルにいつもコメントをくれる常連さんが居る。毎回動画を投稿するたびにコメントを書き込んでくれて、僕はそのコメントに時に共感し、時に唸らされながら、返信を投稿する。</p>
<p>XやLINEのような即時的な会話ではなく、動画を投稿する1週間というスローペースで進行するコメントの往復。この掲示板じみた速度感が好きだし、自分と似たような感性の持ち主たちと「面白かった」という感想を共有するのが好きだ。</p>
<p>Youtubeというプラットフォームは心底嫌いだが、それでも土俵から降りたくないのは、ひとえにこの常連されんとの会話が楽しいからという理由に尽きる。</p>
<p>僕がささやかな楽しみにしている常連さん達とのコメントの応酬は双方向的（インタラクティブ）なコミュニケーションだが、悲しかなYoutubeに付随するコミュニケーションの多くは非対称的だ。そしてこの一方向的・非対称的なコミュニケーションこそが、Youtubeを息苦しい場所に仕立てている。</p>
<h2 id="sec-1">非対称性</h2>
<p>公開翌日、『ウィキッド ふたりの魔女』を観た。オズの国では動物たちが不当な扱いを受けていて、それを象徴づけるセットピースとして檻に入れられたライオンが登場する。この場面を観た時、僕の頭に浮かんだのは現下のSNSを取り巻く諸相だった。檻に入れられたライオンは、檻の外から人間に棒で叩かれて恐懼している。逃げ場もなく、なすすべもなく、ただ振るわれる暴力に忍苦するほかない状況。</p>
<p>昨今のSNS空間はこの檻と同じ構造を有している。Xでなにかを投稿した瞬間、投稿主は檻の中のライオンと同じ状況に陥る。どこで誰が見ているかも分からず、引用RPされるならまだしも、スクリーンショットを撮られて自分のあずかり知らぬところで拡散されるリスクがある。Youtubeに動画を投稿すれば、不特定多数の視聴者が動画を視聴し、動画にコメントを投稿する。投稿者はそのコメントを受け取ることしかできず、公開設定でコメントをシャットアウトしてしまえば再生数が目減りしてしまう。</p>
<p>とりわけYoutubeの映画界隈では動画投稿主／視聴者の他にも、映画作品／動画投稿主の間にも映画作品／観客の間にも、コミュニケーションの非対称性が成立している点が皮肉だ。映画の作り手たちは心血を注いで作品を世に送り出し、そのあとは観客たちの裁きを待つほかない。一度、映画館にかかった映画を公開後に回収することは能わず、一度作品が世に送り出されると、作り手たちは観客の評価を受け入れるしかない。そして、映画を観た感想を傍若無人に語るYoutuberもまた、この非対称性に甘んじて好き好きに感想を語り、それを動画としてコンテンツ化する。ここでもYoutuberと映画製作者の非対称性が成立している。そして、そんな動画投稿主たちもまた、不特定多数の視聴者から寄せられるコメントによって、非対称的なコミュニケーションを押し付けられる。まるで負の連鎖だ。一方通行のコミュニケーションが連鎖し、視聴者の感情が再生数によって数値化されて可視化され、彼らの感情が増幅されて、それが新たなコメントを生み出す…</p>
<p>この非対称性のチェーン・リアクションが行き着く最果てこそ、「酷評」動画だ。</p>
<h2 id="sec-2">褒める技術</h2>
<p>作品を世に送り出し、観客の裁きを甘んじて受け入れるほかない映画製作者。彼らが心血を注いだ作品を再生数を稼ぐため、Youtubeというゲームでハイスコアを叩き出す目的で無責任に酷評するYoutuber。その動画に大挙して押し寄せる視聴者。酷評に便乗する彼らのコメント。すべてが非対称性で占められている。</p>
<p>デジタル上におけるカンガルー裁判。これがYoutubeで日々生成され、もっとも視聴数を稼げるコンテンツの正体だ。そして、この状況をより複雑にしているのは、映画という娯楽の持つ性質──互いに感想を言い合うファンコミュニティに寄生する映画の性質だ。</p>
<p>観る人の数だけ違った感想があって当然だし、その差異を互いに交換しあうことに映画の感想を語る愉しみがある。だから酷評するのも自由なのだ。本来は。だがYoutubeで酷評すれば、マネーゲームと非対称性に絡め取られてしまう。だからYoutubeで酷評する行為は悪辣なのだ。</p>
<p>映画を観て文句を言うのは容易い。「なんでもかんでもフェミ化しやがって…クソだ」感情にまかせて、不特定多数がもっとも共感するであろう最大効果域を狙って火種を放り込めばいいのだから。</p>
<p>Youtubeで映画を語るのは批評とはまったくの別物、どこの馬の骨とも分からぬ一般人の感想に過ぎない。だから厳密には酷評という言葉を冠する資格はなく、単なる「文句」に過ぎないのだけれど…はたして、映画を酷評した動画が人気コンテンツとして横溢するYoutubeの現況が、果たして正常と言えるのだろうか。</p>
<p>批評家の小林秀雄は『考えるヒント』の中で、批評とは何かをこう記している。</p>
<blockquote>
<p>批評とは人を褒める特殊な技術だ、と言えそうだ。</p>
</blockquote>
<p>不特定多数の無知と激情が暴走した結果、ソクラテスは殺された。ソクラテスの生きた紀元前5世紀半ばのアテネは、古代民主制を確立し、豊かな文化を有していた。だが同世紀後半になると戦争に巻き込まれ、混乱と衰退が始まる。ソクラテスの裁判はそんな状況下で執り行われた。ソクラテスは独裁者によるカンガルー裁判で処刑されたのではない。彼を不当に非難し、死に追いやったのは無知な市民であり、刑を宣告したのも市民だった。偉大な知は、低俗なポピュリズムによって殺された。</p>
<p>歴史家は言う。歴史は繰り返す。それは人が歴史から何も学ばないからだ。何も考えないからだ。舞台が現実世界からデジタル空間に遷移しただけで、事態は紀元前から何も変わっちゃいない。</p>
<p>今やNetflixに代表されるメディア・コングロマリットが支配するエンターテイメント業界、とりわけ映画産業。</p>
<p>ラテン語の「役に立たない（enter）」と「tenue（楽しい）」を組み合わせた複合語＝エンターテイメント。</p>
<p>べつに無くても生存には困らない。けれど、楽しいもの。それが娯楽であり、映画であったはずだ。</p>
<p>映画を不当に貶め、その状況をＢＲＥＡＫＩＮＧ ＤＯＷＮを観るのにも似たピーピングトム的な視点で享受するYoutube映画界隈の現況は、娯楽の「愉しみ方」を履き違えている。</p>
<p>では、映画とは何なのか？ 一生かかっても答えが出ない（出るはずもない）深遠な問いに、偉大な映画評論家は有効な補助線を提示している。</p>
<blockquote>
<p>映画は映画論文のためのものではありません。映画は心にしみこむ芸術であって、いうならば人間形成の最ももっとも重要なものを生きた目に見せ、生きた心にしみこませ、ゆたかな人間を生んでゆく、生きた教科書だと信じています。<cite class="quote-source">— 淀川長治 『淀川長治 映画塾』</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>消費と鑑賞の違い</title>
    <link>https://indi-visual11.com/consumption-and-appreciation/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-consumption-and-appreciation</guid>
    <pubDate>Thu, 12 Sep 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>たかが映画、されど映画</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>先日、僕が敬愛してやまないブログ主さんとX(Twitter)で歓談していた。そこで、数年前にベストセラーとなった新書『映画を早送りで観る人たち』が話題にのぼった。</p>
<p>改めて、映画の鑑賞と消費の違いについて思考を巡らせた。いつでも、どこでも、何度でも、手軽に映画を観られる現代。山崎まさよしではないけれど、向かいのホームでも、路地裏の窓でも、ショッピングモールのフードコートでも、スマホで映画を観ている人を容易に見つけられる。</p>
<p>他方、映画館に赴けば、新作公開の映画に観客が大挙して押し寄せ、1館平均10スクリーンを有するシネコンは今日もフル稼働している。</p>
<p>ムーアの法則によるデバイスの高性能化と通信インフラの発展に伴い、NetflixやAmazonプライム・ビデオなどの配信サービスが登場したことで、映画を観る選択肢は激増した。下地が整ったところでCOVID-19によるロックダウンがやって来て、自宅で映画を観るスタイルは一般に広く定着した。</p>
<p>そんな現況下において、「映画を鑑賞すること」と「映画をコンテンツとして消費すること」の違いについて、今一度見つめ直してみたい。</p>
<p>あらかじめ断っておくが、僕は、映画を鑑賞する人も、消費する人も、両方いてもいいと思っている。…とは言いつつも、まるでスナック菓子を頬張るように、映画をインスタントに消費する人が一定数いることに寂寥感を抱かずにはいられないのだけれど。</p>
<h3 id="sec-1">鑑賞と消費の違い</h3>
<p>前述の新書『映画を早送りで観る人たち』の中で、映画を早送りで観る人と、それに対し少なからず抵抗感を抱く人の違いについて、著者は「映画に対する姿勢の違い」補助線に引いている。じっくりと腰を据えて映画を観ることを“鑑賞”と、早送りするなどインスタントな方法で観ることを“消費”として区別している。著書の中では、早送りで観る行為を“消費”としているが、本稿ではスマホやiPadで移動時間/スキマ時間に観る行為も含める。(じゃあ飛行機の機内で観るのはどうなんだ？ とか、そういう厳密さは求めないでクレメンス)</p>
<p>鑑賞も消費も、「映画を観る」行為に変わりない。だが両者は決定的に違う。何が違うのか？
両者を峻別する違いは、代替可能性にあるのではないかと僕は思う。</p>
<p>映画を鑑賞する人々にとって、映画は代替不可能な対象であるのに対し、映画を消費する人々にとっては消費するコンテンツは必ずしも映画である必要がない──つまり映画以外の何かに代替可能な対象なのだ。</p>
<p>鑑賞と消費、それぞれの違いを検討しながら敷衍していこう。</p>
<h3 id="sec-2">鑑賞</h3>
<p>映画を鑑賞する人々(かく言う僕もこの種の人間)は、映画を観ることによって得られる圧倒的な没入感とそれによって生まれる疑似体験を求めている。映画ひいては物語は、まったく赤の他人に自己を投影することで作品内の世界に入り込み、そこで2時間ないしそれ以上の時間を過ごす疑似体験だ。物理的な身体を現実世界に置きながら、少しだけ他人の人生を歩むことができる──これこそが、映画を含めた物語の持つ力だ。</p>
<p>この疑似体験の質に大きく関わるファクターがある。現代を代表するスター映画監督にしてスクリーン原理主義者のクリストファー・ノーラン監督が、時につけ折に触れ口にする言葉──「没入感」だ。</p>
<p>ノーラン監督は劇場の大きなスクリーンに映された映画作品には、圧倒的な没入感が伴い、その感覚が観客を物語の世界に連れて行ってくれると信じている(数々のインタビューを参照するに、おそらくこのノーラン監督の揺るぎない信条は、彼が幼少期に『2001年宇宙の旅』を劇場で観て感銘を受けた体験に原風景を見出せる)</p>
<p>この没入感を獲得するためには、僕たち観客は映画と正面切って向き合わねばならず、そのためにはスマホやiPadのような小さな画面よりも映画鑑賞に最適化された空間、つまり劇場のスクリーンの方が適していることは論を俟たない。</p>
<p>だから映画を鑑賞したい人たちは映画館に行く。よしんば自宅のテレビで鑑賞するしても、早送りはしないだろう。なぜなら映画を鑑賞したい人たちは、映画作品を玩味したいのであって、摂取したいのではないからだ。</p>
<p>批評/評論の文脈で、映画やアニメといった創作物はよく食べ物に喩えられる。これを援用するならば、映画を鑑賞したい人たちは映画作品をしっかりと味わいたいのであって、カロリーメイトやウィダーインゼリーのごとく「とりあえず栄養摂取」したいのではない、と相成る。</p>
<p>映画作品を余すことなく堪能したい、という欲望。その欲望から、鑑賞する人たちは映画と真摯に向き合う姿勢を要求される。すべては疑似体験を得るために。その没入感が高まれば高まるほど、その疑似体験の解像度が上がることを知っているから、一定以上の集中力を保って映画を観る/鑑賞する。</p>
<p>小説でもなく、ゲームでもなく、演劇でもなく、第七芸術たる映画というメディアでしか獲得できない、唯一無二の疑似体験がある。それを経験則として知悉しているゆえに、映画を鑑賞する人たちは映画をしっかりと玩味する。あるいは玩味しようとする。</p>
<p>たった2時間ないしそれ以上/以下の時間を割けば、ミラーニューロンがもたらす共感作用によって、まったく赤の他人の人生を生きることができる。その醍醐味を知っているから、映画作品を堪能しようと、鑑賞しようと欲望する。</p>
<p>他のメディアでは代替不可能──映画じゃなきゃダメなのだ。</p>
<p class="noind">『市民ケーン』で「バラのつぼみ」の真意が明かされた瞬間のカタルシスも、『サイコ』のシャワーシーンにおける戦慄する恐怖も、『タイタニック』のクライマックスでディカプリオが見せる死を悟った表情も、映画以外の媒体では決して表現できない。映画じゃなきゃダメなのだ。</p>
<h3 id="sec-3">消費</h3>
<p>一方、映画を早送りするなどインスタントな手段で観る人たちが映画に求めているのは、おそらく暇つぶしだと思う(僕自身、映画を早送りで観たり、スマホで観たりしたくない人種なので、これはまったく想像するしかないのだけれど…)</p>
<p>前述した新書『映画を早送りで観る人たち』の中で挙げられていた、映画を消費する人たちに行ったインタビューによると、友だち同士の話題、世間の話題についていくコミュニケーションの手段として、映画を消費する、という目的も一定数あるらしい。</p>
<p>電車やバスの移動中にスマホで映画を観ている人はどうだろう？
前から気になっていた映画が配信開始されたけど、なかなか観る時間がなくて、スキマ時間に観ている……という人ばかりではないはずだ(現代人にはたしかに時間が圧倒的に不足しているけれど、全人類がそんなに時間に追われているのなら、世界は今頃もっと発展しているはずだ)</p>
<p>おそらく、映画をコンテンツ＝情報として消費している人たちにとって、「映画」とはマンガやTiktok、Youtubeといった他のコンテンツにも代替可能な暇つぶしの手段、スキマ時間を埋める手慰みなのだと思う。</p>
<p>僕を含めた映画を鑑賞する人々が、映画に求める圧倒的な没入感とそれがもたらす疑似体験を彼/彼女らは求めていない。ただ空いた時間を埋める手段として、ゲームやYoutube、アニメ、友だちと遊びに行くといった無数にある選択肢の中から、たまたま映画を選んだだけに過ぎない。べつに映画である必要性がない。</p>
<p>つまり、映画を消費する人々と映画を鑑賞する人々は、そもそも前提も違えば目的も異なる。
まったく別の国の人同士、という感覚に近い。言語も違えば、習慣も違う、異国の人同士。
けれど、僕は別にこれでいいと思うのだ。</p>
<p>映画とはエンターテイメント＝娯楽であり、娯楽とは余暇の時間を使う“時間の消費”に他ならないからだ。元来、映画とはそうやって発展してきたのだし、余暇の時間をどう使おうが、映画をどのように観ようが、それはまったくもって他人の領域だ。好き勝手にする権利がある。</p>
<p>これを映画原理主義者的な人が、映画を早送りで観る輩は映画の楽しさを知らんからだ、そもそも作品数を観てない経験値不足だからだ、とか言い始めると、途端にきな臭い啓蒙活動になってしまう。その逆もしかりで、映画を早送りで観ている人たちが、映画と真摯に向き合っている人のことを鼻で笑うと、それは紛う方ない侮辱行為だ。</p>
<p>手前勝手な正しさの押し売りは、泥沼のごとき分裂と対立をもたらす。大統領選を巡って国内が二分している現在のアメリカのように。</p>
<p>だから、映画を鑑賞する人たちと消費する人たちは、互いに共存する道を探るのが最善策だと思う。</p>
<p>極言すれば、「たかが映画、されど映画」なのだ。</p>
<p>映画に対する熱量に程度の差はあって当然だし、そうあるべきだと思う。だって、しょせんは余暇のいち手段に過ぎないのだから。</p>
<p>映画というメディアが誕生して1世紀ばかり。いつの時代も映画におけるエンターテイメントとは「バイオレンスとセックス」だった。その歴史こそが、大衆娯楽としての映画の性格を物語っている。</p>
<p class="noind">「たかが映画だ」──そう言下に切り捨てるのは簡単だ。<br><span class="ind"></span>けど、僕は言いたい。「されど映画なのだ」と。</p>
<p>映画でしか得られない、内面的な豊かさ/充足感がある。<br><span class="ind"></span>映画には他のメディアでは表現し得ない、無窮の可能性がある。</p>
<p>そう信じて疑わない人たちこそが、映画館の暗闇の中でスクリーンに映った光が胸に差し込む幸福感を味わうことができる。ひとりの映画ファンとして、僕はそう信じている。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>コンテクストとテクスト</title>
    <link>https://indi-visual11.com/context-and-text/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-context-and-text</guid>
    <pubDate>Tue, 20 Aug 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>必要なのは「話し合い」ではなく「黙り合い」だ</description>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>私は、現代人が失いかけているのは「話しあい」などではなくて、むしろ「黙りあい」だと思っている。<cite class="quote-source">— 東京零年</cite></p></blockquote>
<p>突然だが無職になった。転職が決まって新しい住環境を手配している最中なのだが、これが一向に進まない。なので正確を期すなら無職期間と言う方が妥当なのだろうが、インカムが無いという点では同じことだ。社会の歯車から切断された陰キャのオタクがすることといえば、映画鑑賞と読書をおいて他にない。そういうわけで、僕は目下、ひたすら映画を観て、本を読んでる。これほど創作物を暴飲暴食するのは学生時代以来のことで、平日の真っ昼間から映画を観ることに罪悪感を抱きながら、それなりに楽しんでいる。今日は最近観た映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』と『TAR/ター』という2つの作品を通して現在のSNS言論について考えてみたい。まずは今日のSNS空間の状況を概観しよう。</p>
<p>今年の明けに、大掃除をするぐらいの軽い思いつきでYoutubeを始めてから半年が経った。自分で動画を投稿し始めると、他の人がどういう動画を投稿しているのか気になるのは当然で、投稿主としてではなく一人のユーザーとしてYoutubeを利用する機会が日常的に増えた。種々雑多な動画が混在するが、そうった動画のジャンルを横断して、ある潮流が幅を利かせている。それが「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」である。</p>
<p>近頃だとパリ五輪の話題や、UBIソフトの新作ゲーム『アサシンクリード シャドウズ』の弥助問題がこの一大潮流の本丸と言えるだろう。こういった時事性の高いポリコレの牙城があって、その周縁部分に、ディズニー作品や新規アニメ作品・マンガといった大ヒットコンテンツのポリコレ常備軍が存在する。これが今のYoutubeはじめSNSの言論空間の勢力図だ。</p>
<p>ここでは多様性については言及しない。猫も杓子もポリコレを糾弾する昨今のSNS言論の状況のみを俎上に載せる。</p>
<p>つい先日も、とある大手の映画系Youtuberが『デッドプール＆ウルヴァリン』の動画をポリコレ的な切り口で論じてXで軽く炎上していた。くだんの動画および投稿主の主張はいったん棚上げするが、この炎上騒動を傍観していた僕は疑問を抱かずにはいられなかった。最近、作品そのものに対する言説よりも、作品の周縁部分に対する言説ばかりが目立つのはなぜなのか？　1本の映画に作品として向き合い、その作品から論を展開するのではなく、ポリコレという固定された視座から論じる風潮ばかり目立つはなぜなのか？</p>
<p>世の中に星の数ほどある映画の感想ブログやYoutubeの映画系チャンネルと映画評論はまったく異なる別種の存在だ。映画評論とは、映画という作品をある視座に沿って分解し、新たなイデオロギーを見出し、作品外(社会や文化といった外領域)に接続する知的な試みであり、その遠大な思弁を展開するためには“テキスト”を用いる他なかったのだ。映画についての所感を述べるためにYoutubeやブログといったプラットフォームに依拠せざるを得なかった映画レビューとは似て非なるものだ。</p>
<p>寺山修司は『言葉が眠るとき、かの世界が目ざめる』の中で「人生を語るのは話しことばで、政治を語るのは書きことばだ」と述べたが、その論を援用するならば、映画作品そのものを語るのが話しことば(Youtube)であり、作品そのものから発したイデオロギーを論じるのは書きことば(映画評論)であるはずだ。だが、現実は両者が倒錯関係に陥っている。どうしてこうなったのか？　昨今のSNS言論を取り巻くこの状況は、文脈(コンテキスト)の固着化と作品(テクスト)の度外視に原因があると思う。</p>
<p>トッド・フィールドが監督・脚本・製作を務めた2022年公開の映画『TAR/ター』では、ケイト・ブランシェット演じるカリスマ音楽家：リディア・ターが内破してゆく姿が描かれる。ウディ・アレン監督作『ブルー・ジャスミン』で、ゆるやかに自壊してゆく女を怪演してオスカーを受賞したケイト・ブランシェットだが、その壊れっぷりは本作でも健在で、音楽に精通したカリスマが自己の幻影に苛まれて凋落してゆく姿は、憐憫を通り越して恐怖すら感じる。</p>
<p>映画の序盤、リディアがジュリアード音楽院で客員教鞭をとるシーンがある。ひとりの男子生徒が、とあるクラシックの巨匠の指揮には興味がないと発言し、これに対し、リディアは徹底的に論駁する。クラシックの大巨匠の女性蔑視的な価値観が理解できないと苦言を呈す男子生徒にリディアは言う。ジェンダー観やアイデンティティー、政治性といった表面的な違い超えて、その下にある音楽に目を向けろ、と。文脈(コンテキスト)と音楽を切り離し、音楽そのものと向き合えと喝破するのだ。</p>
<p>リディアが男子生徒を口撃するこの場面は、後に本意を無視して撮影/編集され、SNSにアップロードされて炎上する。文脈の遮断を論じた彼女が、文脈を無視したSNS動画で追いやられるという展開は、じつに皮肉が効いている。映画の終盤、すべてを失ったリディアは映画の冒頭では想像できないような環境で楽団の指揮を取る。心理的な圧迫が身体にも異常をきたすほど人間として破綻してしまっても、彼女は音楽と向き合い続ける。世間から何と非難されようと、周囲がどう思おうとお構いなしに音楽と向き合う。自らの主張を体現する。</p>
<p>文脈(コンテキスト)と音楽を切り離し、音楽そのものと向き合うべきだというリディアの主張は、ポリコレ/反ポリコレの二元論的な切り口でしか作品(映画を含む)を語れない昨今のSNS言論に通じるものがある。</p>
<p>どんな文脈の中に位置づけるかによって作品の見え方は大きく変わる。先日読んだ渡辺 将人著『アメリカ映画の文化副読本』には、アメリカ映画を観る際の文脈が大量に書かれていた。例えば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『アメイジング・スパイダーマン』など、学園を舞台にしたアメリカ映画では定番シーンと言えるプロムの描写も、日本的な学園祭の延長という文脈で観るか、大人の階段を登る米国人のイニシエーションという文脈で観るかによって、同じプロムでも見え方は違ってくる。</p>
<p>昨今のポリコレ/反ポリコレ的な切り口で映画を語るSNS言論空間には、こういった文脈と作品を峻別するという視点が欠如している。ポリコレ/反ポリコレという特定の文脈にのみ執着し、その他の文脈を放棄し、作品そのものからも目を背ける。これが本来の映画の楽しみ方なのだろうか？</p>
<p class="noind">『TAR/ター』のリディアと同じ主張をした哲学者がいる。それがロラン・バルトだ。文章(テクスト)は書かれた瞬間から作者の手を離れるのだから、文章はあくまで文章そのものとして読まれるべきである──これがロラン・バルトが唱えたテクスト論である。一般的には、作者の存在を意図的に排除することで、文章(作品)を読者の解釈に委ねる、と解釈されるが、これは裏を返せば文章そのものを玩味するだけのリテラシーを読者に要求することでもある点には留保が必要だ。</p>
<p>文脈(コンテキスト)と作品(テキスト)を峻別しろ、と『TAR/ター』は言う。これと真逆のことをやってのけたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』である。非オタク層・ライトオタク層にまで人口に膾炙したエポックメイキングが、大衆(マス)という文脈に迎合し、製作意図という文脈の中で消費される前提で作り上げた世紀の失敗作。それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』にほかならない。</p>
<p>淀川長治さんの「どんな映画でも3秒だけ良いシーンがあれば、それは良い映画だ」を金科玉条に掲げ、ふだんは絶対に作品の酷評は公言しないと決めている僕だけど、今回ばかりは許してほしい。そして何度でも言う。これは駄作だ。生まれるべきではなかった映画だ。</p>
<p>エヴァンゲリオンがTV放送開始された1995年に僕は生まれた。作品をリアルタイムで観ていないが、それでも14歳の時──碇シンジの設定年齢と同じ歳──にTVシリーズを観て自分の価値観/世界観にセカンド・インパクトをもたらした、思い出深い作品である。高校生の時には学校をサボって近所の映画館に『シン・エヴァンゲリオン劇場版Q』を観に行った。僕の思春期はエヴァと共にあった。そんなエヴァがついに終わりを迎える──そう大々的に銘打って2021年に公開されたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だった。</p>
<p>この作品を僕はつい数日前に観た。劇場公開時、世間にエヴァ旋風が吹きつけるなか、そのムーブメントから背を向けた。予告編すら観なかった。何を隠そう、自分の思春期の終焉を突きつけられているような気がして、観るのが怖かったのだ。そんな青臭いセンチメンタリズムと折り合いをつけるのに3年かかった。そしてようやく観た。つい数日前に。TVシリーズ最終話で当時14歳だった僕に哲学的実存の問題を投げかけ、旧劇場版でヨーロッパ映画への憧憬を呼び起こした「エヴァンゲリオン」の最終章である。気合いを入れて、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』過去作を全部見直してから満を持して観た。</p>
<p>観終わって後悔した。観なければよかったと。こんな終わり方をするくらいなら、僕の中でエヴァを永遠に未完のまま放置しておけばよかった。本気でそう思った。</p>
<p>僕がエヴァ完結編に落胆した理由は大きく2つある。1つ目は、作り手(庵野監督)が明らかに観客の顔色を伺いながら作ったのが見え透いていること。2つ目は、そういった製作者(庵野監督)の意図・主張をNHKのドキュメンタリー番組で披瀝していることだ。</p>
<p>後者については、いささか不公平な弁であることは承知している。なにせ、宮崎駿監督なんて、新作を公開するたびにNHKで製作ドキュメンタリーが作られているんだから。国民的アニメ「ジブリ作品」なら宣伝と割り切れる。だれど、今回は何て言ったってエヴァだ。視聴者に一切迎合しない、フランス映画的な突き放した語り口を唯一無二の世界観で描き上げた日本アニメ史のエポックメイキング。フロム・ソフトウェアの傑作RPG『ダークソウル』シリーズと同様に、沈黙することで多弁に物語る──それがエヴァという作品と僕たち観客の暗黙の了解だったはずだ。その不文律をエヴァは、ひいては庵野監督は反故にした。</p>
<p>映画の序盤から中盤にかけて、塞ぎ込んでいたシンジは案ずるより産むが易し的な、“とりあえず労働”することで希望を見出し、生の実感を獲得していく。</p>
<p class="noind">「今まで小難しいことばっか言ってきたけど、まぁ、あんま深く考えずに仕事して家庭もって生きろ。それが一番幸せだぞ」</p>
<p>ここに来て突然、そんな昭和の高度成長期的なメッセージを放り投げられて、「旧劇場版こそが至高」「これぞエヴァンゲリオン」と信じていた僕は、このメッセージをどう受け止めればいいのか分からなかった。受け止めきれなかった。作品(テクスト)と向き合おうとしても、過去作と比較した時のあまりの温度差に、否応なしに製作者の思惑が見え透いてしまうのだ。</p>
<p>恋愛・結婚・自己実現──それだけが人生じゃない。そう言って、根暗で陰キャな思春期のオタクを慰撫してくれるのが、その受け皿たり得るのがエヴァという作品だったはずだ。</p>
<p>この非オタク層(一般人)に目配せするような安直なメッセージに加えて、終盤、アディショナルインパクトが起こってからの懇切丁寧すぎる説明セリフの数々…今なにが起きて、どんな気持ちで、どうなっているのか。そんな説明が滔々と語られる30分間。</p>
<p>どうして、こんな終幕になったのか。それは庵野監督が『TAR/ター』のリディア・ターとは真逆の存在になってしまったからだ。つまり、観客＝大衆(マス)の顔色を窺って大勢が納得できる最小公倍数的な解決を模索した結果、ドキュメンタリー番組で放送された製作の苦悩と葛藤・製作意図といった文脈の上で消費されることを前提に作品を撮ってしまったからだ。</p>
<p>文脈(コンテキスト)と作品(テクスト)は峻別されるべきだ。作品は作品として鑑賞され、玩味され、観客ひとり一人の解釈によって検証されて然るべきだ。だが、作品の前提として、製作者の意図・苦悩という“文脈”を与えられた作品は、ドキュメンタリー番組というスクリーン外の要素がすでに作品のコンポーネントと化している。ここに『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の失敗がある。旧劇場版でアスカやレイに惚れ込むオタクたちをあげつらったあの気概は雲散霧消し、非オタク層(一般人)にも浸透するメッセージを優先した成れの果てがこの作品だ。</p>
<p>昨日、Xでとある投稿が流れてきた。その投稿の主旨はこうだ。「どうして日本映画は役者がボソボソと台詞を喋り、唐突にベッドシーンが入るのか。もっと見やすく、わかりやすく、観客のことを考えて映画を作れないのか」</p>
<p>この主張も確かに一理ある。だが、こういった批判/非難を恐れて観客に迎合するのは、まぎれもなく文脈(コンテキスト)と作品(テキスト)の混合である。こういう文脈上で観てください──作品(テクスト)そのものと向き合おうとしても、そんな製作者の思惑が浮かび上がってくるような作品。</p>
<p>この種の映画でもショービジネスとしてはそれなりに成績を上げるのかもしれないが、ひとりの映画ファンとして、こういう映画がスタンダードになっていくのは納得がいかない。</p>
<p>文脈(コンテキスト)と作品(テクスト)を峻別する感性が昨今のSNS言論には欠けている。ポリコレ/反ポリコレといった二元論的な文脈から脱却し、作品のみに焦点を当てること。これが今のSNSユーザーに要請される態度である。とはいえ、一億総評論家の現代。多様な解釈やら感想が横溢し、それをクリエイターが憂いた結果、固定された文脈上でしか消費できない作品が生まれる。まるでウロボロスだ。悪循環の堂々巡り。かといって、SNSがサイバー空間におけるアイデンティティーと化した現代でSNSを遮断することは不可能だ。では、どうすればいいのか。</p>
<p>SNSと適切な間合いを取るより他にない。小林正樹監督の映画『切腹(1962)』の中で描かれる侍同士の決闘シーンのように。擦り足でじわじわと間合いを詰め、刀の切っ先が届くか届かないかの絶妙な“間合い”を探ること。</p>
<p>Xの映画界隈のアカウントでも、ポリコレをはじめ、若い女子に粘着する老害オヤジや、好きな映画作品を巡って痛罵し合う輩まで、いろんな手合いが跋扈している。映画作品そのものではなく、映画を触媒にして、誰かとコミュニケーションすることを目的とした馴れ合い。これが間違った映画の消費方法だとは思わない。僕はそこまで映画原理主義者ではないし、蓮實重彦さんほど図太い神経を持ち合わせていない。ただ、こういった手合いを見ていると哀れだとは思う。</p>
<p>議論は大切だが、昨今のSNS言論を支配するポリコレの潮流は議論の域に達していない。みんな、今一度冷静になるべきだ。今のSNSに、僕たちに必要なのは「話し合い」ではない。「黙り合い」なのだ。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>ふたたび、声をあげる</title>
    <link>https://indi-visual11.com/koe-wo-ageru/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-koe-wo-ageru</guid>
    <pubDate>Tue, 20 Aug 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>結局、僕には書くことしかできない</description>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>「社会に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、孤独に暮らせ。それが嫌なら──」<cite class="quote-source">— 攻殻機動隊 Stand Alone Complex 第一話</cite></p></blockquote>
<p>ここ数年、書くことをやめていた。完全にやめたわけではない。時たまテキストエディタを開いては、公開するあてのない文章を書いていた。ただ、そうして書いた文章をオンラインで発信することをやめていた。</p>
<p>昔から文章を書くのが好きだった。だから数年前まではブログを書き、トレンドに便乗してNoteを始め、毎日のようにX(Twitter)に投稿していた。だが、気づいた時にはすべてやめていた。URLを付与され、オンラインに公開された文章。自分で書いたそれらの文章を読んで、これは自分が書きたいから書いているのか、それともプラットフォームに書かされているのか、確信が持てなくなったからだ。</p>
<p>だから僕は、冒頭で引用した攻殻機動隊の台詞のように──あるいはその元ネタである晩年のサリンジャーのように──耳と目を閉じ、孤独な人間になろうと考えた。ネットの喧騒から距離を置き、本を読み、映画を観て、音楽を聴いていた。自分だけの世界に浸っていた。だが、今の僕はこうして再びオンラインに文章を投稿している。それはなぜか。</p>
<p>書きたかったからだ。無性に、どうしようもなく、書きたくなったからだ。誰に読まれることも想定していない単なる言葉の羅列ではなく、誰かに届くことを前提とした文章をもう一度書いてみたくなった。だからもう一度、書いてみようと思った。</p>
<p>本を読み、音楽を聴き、映画を観て日々をすごす。そうやって他人が心血を注いだ創作物に触れ続けると、頭の中で言葉がぐるぐる回り始める。その状態がしばらく続くと、頭の中の言葉をどこかに吐き出したくなる瞬間が訪れる。ここ数年、僕はその瞬間をひたすら無視しつづけてきた。書きたいという欲望はつのる一方だったが、文章をオンラインで公開することには拭いがたい抵抗感があった。X(Twitte)rやNote、はてなブログ、Instagram、Youtube、Pinterest、Facebook、Tiktok──そういったプラットフォームに対する落胆とネットユーザー全体への諦念が、抵抗感の正体だった。</p>
<p>だが、言葉が情報であり、情報が社会のコンポーネントである以上、文章を書くという行為は社会的な営為である。読み手を想定しない文章は、たんなる死文でしかなく、情報としての機能すら有していない。この数年で僕はそんな死文を量産し続けてきた。書きたかったから書いた。だが、それはキーボードに文字を打ち込んで言葉の羅列をつくるという単純な作業でしかなく、ことば本来の意味において「書いて」いなかった。行為であって営為ではなかった。書きたいという欲望と、書いたものを公開したくないという抵抗感。その狭間で悶々とした日々をすごした。</p>
<p>世の中には欲求ではなく欲望のレベルで、書かずにいられない体質の人が一定数存在する。それを裏づける実験もデータもないのだけれど、作家や評論家のインタビューを読むかぎり、あながち間違っていないような気がする。</p>
<p>どの著作だったか忘れたが、寺山修司が言っていた。「人は誰しもが詩人だが、大人になると詩人であることをやめてしまう」──大人になっても詩人であることをやめなかった人たちが、欲望のレベルで書かずにいられないタイプの人間に分類されるのだろう。かくいう僕もその一人だ。</p>
<p>書きたいという欲求と、それをオンラインで公開することへの抵抗感。その止揚にいたった今、言葉とプラットフォームについて再考してみようと思う。</p>
<h3 id="sec-1">プラットフォームが支配する</h3>
<p>オスカーを総なめにした映画『バードマンあるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡』のなかで、エマ・ストーン演じるティーンエイジャーの娘が、マイケル・キートン演じる父親に向かって言い放つ──「パパはTwitterもFacebookのアカウントも持ってない。そんなの社会に存在しないのと同じじゃない」</p>
<p class="noind">『バードマン』が公開されたのは2014。それから10年が経った今、SNSは社会のインフラとして定着し、僕たちの日常と同化した。TwitterやInstagram、Youtube、Netflix、Note──こういった大きなプラットフォームのアカウントを持っていない人は、ネットという社会から孤立する。だからみんな、プラットフォームを利用する。</p>
<p>アイビーリーグを卒業したシリコンバレーの連中は、大金を稼いで、第二のイーロン・マスクを目指すことに余念がない。基本無料の大手プラットフォームが巨額の利益をあげるには、まず利用者を増やすしかない。利用者が増えたら次の段階に移る。利用者がプラットフォームを使う頻度を上げ、滞在時間を増やすのだ。ユーザーの１日の可処分時間２４時間のうち、どれだけ多くを奪えるかが収益アップにつながるからだ。</p>
<p>いかに利益をあげるかを追究しつづけた結果、プラットフォームのアップデートは「改良する」というお題目のもと、利用者のドーパミンをどれだけ多く分泌させられるか、というゲームにすり替わった。あるドキュメンタリー映画のなかで、Pinterestの創業者の一人が苦笑まじりに述懐する。「自分で開発したPinterestにすっかりハマった。子どもの面倒を見ながら、妻の話を聴きながら、運転しながら、夢中で見ていた。目が離せなかったよ。自分で開発したものだから理性ではわかってたんだ。けどやめられなかった」──この創業者は、自分の戦略が間違っていなかったことと、それがアプリに正しく実装されていることを皮肉にも身をもって証明したのだ。</p>
<p>ヒトの認知を研究しているアメリカの研究者が、スマホの通知のことを次のように表現した──「これはもはやスロットマシンだ」と。実際、人間の注意力というのはスマホの通知音１つ、わずか１秒たらずでいとも簡単に失われるという実験結果がある。スマホの通知がドーパミンを分泌するのだという。通知音を聞いた段階では、その内容まではわからない。ツイートがリツイートされたのかもしれないし、Amazonの発送通知かもしれないし、友だちからのLINEかもしれない。実際に確認するまで、なにが出てくるかわからない。そのワクワク感がドーパミンを分泌させる。だからスロットマシンだというわけである。</p>
<p>これまたアメリカの別の研究者が、ドーパミンについて興味深い実験を行った。実験の概要はこうだ。ボタンを押すと電気が流れるボタンを用意する。マウスの脳に電極をぶっ刺し、人為的にドーパミンを分泌させられる状態にする。ケージの中にボタンとともに放り込まれたマウスは、最初のうちはボタンを押すとすぐに逃げ出し、ボタンに近づこうとしない。だが、ボタンを押したタイミングで脳にぶっ刺した電極によって人為的にドーパミンを分泌させ続けると、マウスは自ら進んでボタンを押すようになる。最初は嫌がっていた電流の痛みよりも、ドーパミンの分泌による快感のほうを選ぶようになるのだ。</p>
<p class="noind">「いかにしてドーパミンを分泌させるか」を至上命題としているアプリは言わずもがな、その通知さえもドーパミンを分泌させる。ドーパミンはよく言われるように脳内麻薬であり中毒性がある。とどのつまり、プラットフォームのアプリが入ったスマホは、人体への影響という点で考えるなら、ラーメンとチャーハンの炭水化物ダブルセットよりも厄介な代物ということになる。先のスロットマシンの例えを延長するなら、スロットレバーを押して脳内麻薬を分泌させ続けている状態と言える。</p>
<p>iPhoneのロック画面に通知が浮かぶ。「あなたのツイートがリツイートされました」──ある時ふと、その通知を見た僕は、レバーを引き続けるマウスのことを思い出した。自らレバーを引き続けて快楽に耽溺するマウス。とっさに頭に浮かんだその情景には、懸命に走ってもまったく前進しない、回し車を転がすマウスを見たときにも似た、えも言われぬ哀れさを感じた。その次の日から、Twitterのアプリを消し、Noteの記事を削除した。このころから、プラットフォーム全般に対して抵抗感を抱き始めた。</p>
<p>僕が抵抗を覚えたのはSNSだけではない。検索エンジンというプラットフォームもまた同じだった。プラットフォームの多様化にともない、幾何級数的に増加するコンテンツ。それらを網羅し、検索ワードとともに検索結果を表示する検索エンジン。その検索エンジンですらGoogleの独壇場になっていて、Yahooの検索エンジンの中身がGoogleに変わったことで独占市場は決定的となった。ならばGoogleの検索アルゴリズムが優秀なのかというとさにあらず。</p>
<p>入力した検索ワードに対し、レスポンスされる検索結果のページ数は数百ページ。そのうち実際に目を通すのは最初の１ページのみ。リスティング広告の統計データを見れば明らかなように、検索結果１ページ目と２ページ目の閲覧数には雲泥の差がある。ネット上にある膨大なコンテンツの大半は、多くの人にとって存在しないのと同義だ。１ページ目に掲載されているのは、本当に知りたかった情報ではなく、「いかがだったでしょうか」で結文するアフィリエイト目的の記事ばかり。いつの間にか、Googleで検索しても本当に知りたい情報を求めていると、ほとんどWikipediaばかり閲覧している自分に気がついた。</p>
<p>そうして少しずつプラットフォームという枠組みから距離を取るようになった。そうこうしているうちに、オーストラリアのクライストチャーチで銃の乱射事件が起こり、Qアノンが台頭し、トランプが連邦議会議事堂の襲撃を教唆した。そして今でもTwitterでは日常的に炎上が起きている。いずれのできごとも、すべてはプラットフォームに起因している。僕はますますプラットフォームから距離を置き、外界と自己を遮断した。より良い未来を嘱望され、「Web2.0」ともてはやされていたオンラインのこれが現状か、とひどく落胆した。</p>
<p>プラットフォームにも落胆したが、それを利用する大衆（マス）にも諦観した。「水は低きに流れる」の言葉どおり、大衆（マス）としての人間は、有史以来さほど変わっていないのではないか。そういう境地に達するほど諦観した。日常的に起こる炎上さわぎ。古代ローマのコロッセオよろしく、その炎上さわぎを外郭から観戦して炎上を煽る人たち。一億総評論家を生んだレビューサイト。そのレビューを見て、あらかじめバイアスがかかった状態でお店に行ったり、モノを買ったり映画を観たりして、自分が参考にしたのと似たようなレビューを無自覚のうちに投稿する人たち。匿名であることを笠に着て、心ない言葉の応酬が繰り広げられるネット掲示板。アテンション・エコノミー、フィルターバブル、レコメンド、フェイクニュース、アルゴリズム、エトセトラ、エトセトラ…………そういったものすべてに対して、気づけば嫌悪感を抱いていた。</p>
<p>僕はSF小説好きでテクノロジー礼賛主義者のアーリーアダプターを自認しているのだけれど、近ごろ話題にのぼることの多い「メタバース」や「NFT」が普及し、５G通信が全国で実現してトラフィックが激増し、その結果、ますます動画がコンテンツの主体となっていく近未来を手放しで喜ぶことができない。プラットフォームやシステムといった外的要素がいくらアップデートされても、マスとしての大衆のほうがリテラシーをアップデートしない限り、本当の意味で世界はより良くならないのではないかと思う。</p>
<p>政治的にニュートラルを標榜していたアノニマスが政治に接近して落ち目になった今、どこか別のハクティビスト集団が現れて、全世界でインターネットを１週間遮断させるテロを起こせば、新たな視座が得られるのではないか。そんな不穏な妄想をしてしまう。</p>
<h3 id="sec-2">社会とことば</h3>
<p>小学生のころ、通っていた塾の先生がもっともらしい顔つきで言っていた。「『わかる』とは、切り分けることです。区別して、切り分けて、そうやって理解していくから『分かる』と書くのです」。授業の内容はさっぱり覚えていないのだけど、『わかる』の一説と先生の体臭が鼻についたことだけは今でも覚えている。</p>
<p>言葉は社会を切り取るための道具である。読み手を想定しない文章には、意味はあっても価値はない。文章の書き方指南のハウツー本で、文章では順番が大切と教えられるのは、文章を読む人は並べられた言葉の順に、その言葉に注意を向けるからだ。書かれた言葉を文章として読むとき、人は文字を目で追いながら一つひとつの言葉に注意を向け、それらを瞬間的に頭に想起し、総体として意味を理解し、社会を切り取る。言葉と社会は不可分の関係にある。</p>
<p>言葉の機能に社会性が内包されているのか、それとも社会というシステムそのものに、あらかじめ言葉が組み込まれているのか。卵が先かニワトリが先か。</p>
<p>いずれにせよ、人は狩猟採集から稲作に移行し、集団という社会性を持ったときから言葉を積極的に活用し始めた。言葉は社会とともに生まれ、社会とともに今も生きている。社会なくして言葉は存在しなかったし、言葉なくして社会は存在しなかった。</p>
<p>人間の脳には元来、言語に特化した部位というものは備わっていなかった。今こうして僕たちが言葉を当たり前のように使うことができるのは、進化の過程で、もともと脳にあった言語とはまったく関係のない機能の部位を、言葉を使うために作り変えたからだ。もともとはジャングルの密林で獲物を見つけるために使っていた脳の機能を、言語を扱うという目的に従属させた。もともと脳に備わっていた部位を使って、ありあわせのものを使って言語機能を獲得した。なぜヒトは、そうまでして言葉を扱うことを希求したのか。</p>
<p>その理由を探る補助線として「感情」を挙げたい。言語については今なお多くの研究がなされており、これから述べることはまったくの私見にすぎないことを断っておく。僕はつねづね言葉がもつ機能のうち、もっとも大きなウェイトを占めるのは「感情」を伝えることだと思っている。</p>
<p>ヒトが狩猟採集民族だった時代、マンモスのような大きな獲物を仕留めるためには連携プレイが必要となる。そのためには現場レベルでの臨機応変な意思疎通が不可欠であり、そうした業務上の必要性から言葉が生まれた。言語の機能的側面を考えれば、そう考えるのが妥当だろう。</p>
<p>だが、文系オタクな僕はどうしても考えてしまう。妄想してしまう。かがり火を取り囲んで、その日に捕れた獲物を夕餉に、落ち着いた雰囲気にひたる古代人たち。食欲が満たされ、１日の疲労から思わずあくびがこぼれる。誰かがそれを見て「もう寝たら？　疲れたっしょ？」と目顔で伝える。べつの一人が身振り手振りで寝床を示す。あくびをした張本人は、ゆっくりとまばたきして謝意を伝える。そうして日々を過ごしてきた数人の仲間たちが、ひときわ大きな獲物を仕留められた日に祝祭をあげる。そのときの喜びを音楽に乗せて踊ることで表現する。音楽は理屈ぬきで感情に直接的に訴えかける。獲物をしとめた祝祭的な気分が音楽によって増幅され、思わず口から声が漏れ出る。そのときの、意味をなさない感情のほとばしりが、数百年後に言葉となったのではないか。</p>
<p>あるいは、子どもを殺された母親が、殺した相手に暴力以外の手段で、おのれの感情をぶちまけるために喚き散らす。それは激情が音となって口からこぼれただけで、言語としてはまったく意味をなしていない。だが、狂おしいほどの心の痛みが、口から漏れ出る音として勝手に出てきてしまう。</p>
<p>あるいは、一夫多妻制が当たり前だった狩猟採集時代に、めずらしく心から愛し合っている一対の夫婦がいるとする。彼／彼女は肉体的な接触以外の手段で、みずからの思いの丈を、ありったけの愛情を相手に伝えようとする。意味をなさない音が口からこぼれ落ちる。その音に意味はないが、２人にはお互いの気持ちが手に取るようにわかっている。口から漏れ出た音は、まぎれもなく彼／彼女らの感情の結晶だった。その結晶が、時の試練を経て体系化され、数百年後には言語となった。</p>
<p>いつの時代もヒトを突き動かすのはロジックではなく感情である。それは文明的に発展した現代も、未発達であった古代も変わらないのではないか。だとすると、言葉はもともと感情の発露によって生まれ、言語として体系化されたのちは感情を伝える媒介者となったのではないか。すべての言葉には何らかの感情が宿っているのではないか。我ながらロマンティシズムにすぎると思うこの妄想について考えるたびに『虐殺器官』の一節を思いだす。</p>
<blockquote>
<p>「きみはこう思うことはないか、言葉に意味なんてない、とね」
「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね。いまわれわれが話しているこのややこしいやり取りにしても、そんなシンプルな感情を、えらく遠回しに表現しているにすぎないんじゃないか。美味しいとか、不快だとか、そういう原始的な感情を」<cite class="quote-source">— 伊藤計劃『虐殺器官』</cite></p></blockquote>
<p class="noind">『虐殺器官』は言語と社会について、徹底的にエクストラポレーションしてみせたSF（サイエンスフィクション）であり、稀代のSF（スペキュレイティブ・フィクション）だ。その著者である伊藤計劃もまた、作家デビュー以前から膨大な量の文章を書き、オンラインで公開していた。伊藤計劃もまた「欲求ではなく欲望のレベルで書かずにいられない体質の人」であった。</p>
<p>社会的性質を帯びる「欲求」ではなく、生理的衝動としての「欲望」レベルで書かずにいられない人は一定数存在する。彼／彼女らは日常的に言葉に触れている。そしてある時点で衝動的に書きたくなる。書かずにいられなくなる。そして書いたらまた言葉に触れる。その繰り返しのなかで、日々をすごす。</p>
<p>僕たちの住む世界には言葉が、文字があふれている。憲法も法律も、会社の報告書も、電車のつり革広告も、アプリを構成するコードも文字に還元される。私たちの身体を構成するDNAも、ATCGのたった４つの文字列に還元される。文字は言葉となって意味を持ち、感情を宿す。言葉と社会は密接不可分の関係であり、社会を構成するヒトは感情で動く。ヒト、社会、言葉──文明における三位一体。</p>
<p>すべての言葉が感情を伝える媒介なのだとすれば、僕のような「書かずにいられない体質の人」というのは、あふれ出てくる感情を言葉として外界に排出し、そうすることで自己のバランスを保っているのではないか。今こうして書いている文章も、とどのつまり僕の感情のほとばしりでしかないのではないか。言葉と社会について考えるほど、自分の書いた文章をオンラインで公開することが、自己の押し売りに思えてならなかった。</p>
<h3 id="sec-3">ふたたび、声をあげる</h3>
<p>アニメのTシャツを着たり、トートバックに好きなバンドのバッチをつけたり、好きな芸能人をスマホの壁紙にするのと同じような、自己の押し売り。自分が大切に思っているものが、他人にとっても大切なはずだという勘違いした啓蒙主義。衝動的に書きたくなって書いた文章をオンラインで公開することは、それと同じような気がしてならなかった。けれど今、僕はこうして文章を書いている。書きたいから書いた文章を、想定した読者に向けて書いている。これはまぎれもない自己の押し売りであり、僕にとって大切なものが誰かにとって何らかの価値をもつはずだという期待にもとづいた、手前勝手な啓蒙主義にほかならない。</p>
<p>自分にとって大切なものが、他人にとって大切だとはかぎらない。多くの場合、他人にとっては興味の埒外でしかない。ぶっちゃけ、どうでもいい。それが他人の本音だ。それを充分わきまえたうえで、僕はもう一度書きたいと思った。読み手のない私文（あるいは死文）を書くのではなく、こうして他人を想定したうえで、もう一度書いてみたいと思った。</p>
<p>書きたいという欲望レベルの衝動に駆られて書いた文章は、おのれの感情の押し売りにほかならない。それは地方都市の繁華街で、酔客を相手に演奏をつづける路上ライブのパフォーマンスと何らかわらない。けど、べつにそれでいい。そう割り切れるだけの無神経さと楽天的なマインドセットが、歳を重ねるうちに身についた。プラットフォームへの諦念と書きたいという欲求のせめぎあいは、こうして今、文章を書くことで止揚にいたった。</p>
<p>結局、僕には書くことしかできない。だから僕はこれからも書き続けることにする。僕にはそれしかできないから。</p>
<blockquote>
<p>「善と悪、男と女、その間に軋轢が生まれるのは、何の理由もなく他者を傷つけるような人間がいるせいだ。そういうやつらを死ぬほど痛めつけてやりたい、俺を突き動かすのはそういう思いだ。だから俺はマイクに向かって叫ぶ。俺にはそれしかできないから」<cite class="quote-source">— カート・コバーン／マイケル・アゼラッド著 『Come as You Are: The Story of Nirvana』</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>TVのある自室と教会としての映画館</title>
    <link>https://indi-visual11.com/tv-room-and-cinema/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-tv-room-and-cinema</guid>
    <pubDate>Tue, 20 Aug 2024 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>映画という時間を、空間で挟撃せよ</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>noteを再開するにあたって自分が過去に書いた文章を渉猟していたら、こんなテキストが出てきた。主張・意見は持ちながら、文章力が追いついていないな、という羞恥を帯びた自己評価はさて置くとして…この散文を書いたのはCOVID-19によるロックダウンたけなわの時期だ。本稿を書いた当時と現在では状況が異なるし、文脈も変容しているので、今さら再掲するのもどうかと思ったが、骨子となる主張は今も変わっていないので再掲することにした。</p>
<p>世界中の都市がロックダウンされるなか、映画館は在り方を問い直され、実存的な危機に晒された。この文章を書いていた4年前には映画館の未来に閉塞感が立ち込めていたものだけど、蓋を開けてみればコロナ禍の最中に公開された『TENET』が映画館と西欧の映画産業の救済に大きく寄与していた。聖書以来、人間は物語の力を信じ続けてきた。人は物語なくして生きることはできないし、物語の方もまた人間なくして存在し得ない。人間と物語とは相補的な関係性に置かれており、その関係が続くかぎり映画というメディアが廃れることはないだろう。</p>
<p>映画と映画館に幸多き未来が訪れますように。</p>
<p>時間から脱出せよ──半年ぶりに訪れた梅田のTOHOシネマズで、クリストファー・ノーランの新作映画『TENET』のポスターに書かれたこの惹句を見たとき、僕は胸の裡でこう呟いた。</p>
<p class="noind">「やっぱ、何(なん)か、違(ちゃ)うよなぁ……」</p>
<p>そう、「なんか、ちゃう」のである。この「なんか」を敷衍すると、宣伝コピーそのものに対する違和感もあったけれど、より茫漠としたもうひとつの違和感があった。</p>
<p>それは、コロナ禍によって外出機会がめっきり減ってこのかた、自室のTV画面でストリーミング配信の映画を観ていた間、ずっと感じていたある疑問だった。自室のTVであれ映画館のスクリーンであれ、映画を観る行為は同じなのに、なぜTVのある自室は映画館たり得ないのか？</p>
<p>COVID-19のパンデミックは、僕たちが生きる日常空間を目的と手段という2つのマテリアルに分解した。居酒屋での飲みニケーションは、談笑とZoomに分解され「リモート飲み会」というオルタナティヴを生み出し、職場への通勤はSlackなどのビジネスツールと業務に分解されて「リモートワーク」を根づかせた。</p>
<p>映画鑑賞という行為もまた、映画を観ることと、ストリーミングサービスという2つのマテリアルに分解された。映画を鑑賞するための空間という従来の目的を簒奪された映画館は、パンデミックが収束して後も、存在意義を喪失したまま緩やかな死を待つしかないのだろうか。</p>
<p>僕はそう思わない。いや、思いたくない。</p>
<p>思いたくないから、アフターコロナにおける映画館の存在意義を再考したい。COVID-19によるパンデミックを経て、人々は自宅にいながら配信によって映画を観ることに慣れてしまった。自宅のソファで寝そべりながらスマホをいじりながら、月額料金さえ支払えば鑑賞しきれないほど膨大な量の映画にアクセスすることができる。そんな状況に一度慣れてしまった人が、ロックダウンが解除された後、わざわざ2000円近い木戸銭を払ってまで映画館で映画を観ようと思うのだろうか。どちらの方が心理的ハードルが低いかは推して知るべしである。</p>
<p>斯様な状況下における映画館の存在意義とは一体なんなのか。自宅のストリーミング配信による映画鑑賞には無くて、映画館での鑑賞行為にはあるもの。それは“教会的な機能”だと思う。</p>
<p>教会には2つの性格がある。祭壇に祀られた聖母像に祈りを捧げ、己と向き合う空間であること。そして、日常空間から遮断された聖域であること。</p>
<p>まず、前者の性質から検討してみよう。</p>
<p>教会で聖母像に祈りを捧げたからといって、神は明示的に回答してくれるわけではない。それでも人々が心の安息を得られるのは、瞑目して祈りを捧げている間、己と向き合っているからだ。各人の中にある各々の神の姿と胸の裡で対話するからだ。神は存在するか、という神学的な前提はさて置き、対話の相手である神が当人の想像力に依って立つ以上、これは自己との対話にほかならない。</p>
<p>僕たちが教会で聖母像へ祈りを捧げるとき、神は声を発して明示的に回答してくれたりはしない。それでも人々が一定の安らぎを得られるのは、目を瞑って祈っている間、自己と対話しているからだ。各人が想像した各々の神と、胸の裡で対話しているからだ。そして、その対話の相手たる神が当人の想像力に依って立つ以上、それは自己との対話に他ならない。</p>
<p>教会と聖母像の関係は映画館とスクリーンのそれと相似だ。</p>
<p>映画を鑑賞する＝スクリーンを見つめるという行為は、登場人物に自己を投影し、物語世界の中で獲得する疑似体験だ。スクリーンを見つめるとき、僕たちは映画の世界に耽溺すると同時に、内面で自己と対話している。</p>
<p>あの場面で主人公はこういう行動を取ったけど、自分だったらどうするか…？　さっきのシーンでヒロインはどういう心情だったのか…？　そういった内的な自己との対話を重ねることで、観客は映画の中に感情移入していく。これがストーリーに明確なドラマ構造を持たない、いわゆるアートムービーの場合なら、自己を投影する対象がは登場人物からスクリーン全体にシフトする、スケールの違いがあるだけだ。</p>
<p class="noind">『タイタニック』で観客が涙するのは、海底に沈みゆくディカプリオに自己を重ねるからだし、『マルホランド・ドライブ』が混沌のうちに終幕を迎えるとき、スクリーンから匂い立つのは「混乱」というある種のカタルシスであり、およそ現実では味わえない（あるいは味わいたくない）愛憎醜美の折り重なった感情である。</p>
<p>ここでいったん「映画館とTVのある自室」の関係に立ち返ってみたい。</p>
<p>重要なのは映画を映している自室のTV画面が、自己と対話する装置＝聖母像として機能するのかどうかだ。
これを決定づけるのは視聴者の想像力と作品への没入度合いで、この度合いの濃淡は環境に大きく左右される。外界から遮断され、映画鑑賞に集中できる空間──ある種の聖域性が作品への没入度合いを高めるのだ。</p>
<p>週末の午前になると、老若男女が教会へと足を運ぶ。
眠気まなこの少年をせき立てる父親、杖をつきながらとぼとぼと歩く老婆、友人と歓談するティーンエイジャー。みな三々五々に集い合い、教会にむかって歩いていく。スティーブン・スピルバーグやノーマン・ロックウェルらが好んで描きそうな、典型的なサバービアの情景である。そして教会という空間は、そんなサバービア（郊外）という日常のど真ん中にありながら、日常から遮断された非日常的な空間＝聖域でもある。</p>
<p>僕たちが教会の長椅子に並んで座りながら、そっと祈りを捧げるとき、室内を満たすのは粛然たる静寂だ。祈っている間──目を瞑り、内なる自己と対話しているその瞬間、外部の喧騒も、僕語も、場違いな考え事も、その他一切の雑音・雑念も僕たちは排除するよう努める。
それは教会という外部（日常性）から隔絶された、非日常的な空間が要請する態度でもある。身体的・精神的なコンディションの善し悪しに関わらず、ひとたび教会の長椅子に座ったが最後、僕たちは聖母像と、ひいては自己の内的な存在と向き合わざるを得ない。そして、この種の強制力を備えた教会＝聖域と対極をなすのが、日常空間の中心地たる自室だ。</p>
<p>自室のソファでくつろぎながらNetflixで映画を観るとき、僕たちは日常に属する様々なノイズに囲まれている。緊急性の低いメールの通知、パトカーのサイレンや若者の叫声といった窓外の雑音、あるいは自宅であるがゆえに、惰性で飲み続けた缶ビールによる尿意と眠気、といった具合に。</p>
<p>こういったノイズに注意力を乱されたとき、自室ではボタンひとつで映像を一時停止できる。映画を中断できるのは、自室という日常空間の中心地だからだ。一時停止するのも、それからスマホの通知をチェックするのも、思いのまま。だが、これが映画館だとそうはいかない。映画館はノイズとは無縁の外部から隔絶された空間＝聖域だ。仮に、ポケットの中でスマホが着信しようが、尿意を感じようが、前の席でカップルがイチャイチャし始めようが、そんな些事はそっちのけで映画は進行するし、それゆえに観客は集中力を総動員してスクリーンと対峙せざるを得ない。この状況を生み出す強制力こそが、映画館の持つ聖域性であり、自室では決して得られない環境だ。「教会としての映画館」が包摂するしている空間的な魔力であり、TVのある自室が映画館たり得ない最大の理由だ。</p>
<p>時間から脱出せよ──冒頭でも触れた『TENET』の日本版宣伝コピーだ。</p>
<p>本編の内容に即せば、「時間で挟撃せよ」という方が妥当だろう。作中における「第三次世界大戦」＝終局とは、過去と未来の対立であり、時間軸は同一であると見做すべきだからだ。では、ここで「時間」の位置に「空間」を代入し、接頭部へ「映画という時間を」と補って読み替えてみるとどうだろう。</p>
<p class="noind">（映画という時間を）空間で挟撃せよ。</p>
<p>映画という時間を、空間──自宅と映画館という2つの空間で挟撃する。</p>
<p>自室でストリーミング配信の映画を観るという日常にどっぷり浸かった映画鑑賞と、映画館という聖域で自己との対話を重ねる、より没入度合いの高い映画鑑賞。両者は全く性質の異なる映像体験であり、空間である。
だからこそ、両者はゼロサムな関係ではなく共存できる。</p>
<p>映画産業に寒風が吹きつける今、ひとりの映画ファンとして、そう信じたい。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>SIX HACK</title>
    <link>https://indi-visual11.com/six-hack/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-six-hack</guid>
    <pubDate>Mon, 29 May 2023 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>ドラマ</category>
    <description>訳のわからないものを、もう一度</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>数ヶ月ぶりに、訳のわからないものを見た。  </p>
<p class="noind">「久々」でも「〜以来」でもなく、「数ヶ月ぶり」というのはべつにイキりたくて強がっているわけではなくて、今年に入って一発目の「訳がわからないもの」がエブエブだったからだ。</p>
<p>エブエブ──正式表題は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。</p>
<p>イニャリトゥの『バードマン』、『博士の異常な愛情』しかり、『我が谷は緑なりき』しかり、『１２人の怒れる男たち』しかり、古今東西の映画史において、タイトルが長い映画は高確率で面白いと相場は決まっている。</p>
<p>エブエブもその例に漏れず面白い映画だった。陳腐な言葉で言ってしまうと「シュール」な映画だった。とんでもなくパンチの効いた前衛的な演出なのに、口当たりはエンタメ映画で、劇場を後にする時、最後に残るものは胸の奥底にじんと染みわたる温かい情感。関西のインディアンカリーを食べた時の、甘さがいつの間にか辛さに変遷していて、鼻梁に汗をかいていることに気がついた、みたいな「してやられた感」がすごい映画。</p>
<p>アジアン×カンフー×マルチバースというキャッチーな要素を斬新な見せ方でパッケージングした結果、とんでもない化学反応が起きたのがエブエブだった。エブエブの凄まじさは、その見せ方に幻惑されまくって、「なんだこれ、俺は今何を見せられているんだ……」と自失しているうちに、物語はいつの間にやら紛う方ない純度２００％の「愛」に帰着し、感涙のうちにエンドロールが流れ出す──というあの「ごった煮」「カオス」感にあったと思う。</p>
<p class="noind">「訳がわからない……」「なんだこれ……」そんな茫然自失を伴ったカタルシス。デビット・リンチやタランティーノの映画を初めて見た時に誰しもが感じる、あの奇妙な感覚がエブエブにも確かにあった。</p>
<p>そして、エブエブの衝撃と余韻からようやく立ち直れた２０２３年５月。コナン映画のアバンタイトルよろしく完全に油断しきっていたぼくは、背後から近づいてくるもう一つの「訳がわからないもの」に気がつかなかった。それが目下、話題沸騰中（のはず、少なくともぼくの中ではトレンドワード１位）のTV番組、『SIX HACK』である。</p>
<p>作家の樋口恭介さんがTwitterで紹介していて『SIX HACKJ』という番組の存在を知ったのだけれど、いざ観てみると、まさかの樋口さんご本人が出演されていてびっくら昆布。なんだこれ。見るしかないじゃないか。というわけで、『構造素子』からSFマガジンの異常論文特集、さらにはセルフパブリッシングの散文集まで読むほど樋口さんファンなぼくは、すぐさま視聴を開始。</p>
<p>で、ついさきほど２話目まで観終えたのだけれど、エブエブに匹敵するくらい「訳がわからない」コンテンツだった。エブエブは劇映画だったけど、このSIX HACKはTV番組だ。この時点でもう訳がわからない。TV番組のコンテンツといえばお行儀が良くて、口当たりの良い最大公約数的なポジショントークしかできない情報番組か、頭のスイッチをOFFにして呵呵大笑するためのバラエティ番組の二者択一になるのが通論。（予防線張っておくと、ぼくはバラエティ好きだぞ。ユーモアのない人生なんてクソつまらんからな）</p>
<p>というか、よくこんなパンクな企画、TV Tokyo上層部のジャッジ通ったな……</p>
<p>こんな尖った番組の企画にゴーサインが出たことも驚きなら、深夜枠とはいえオンエアされている事実にも驚きだし、当世風にTVerやらYoutubeで見逃し配信にも対応済みなところにもびっくら昆布。
そんないくつもの驚きが重なった結果うまれた、奇跡の番組。それがSIX HACKである。</p>
<p>この番組が掲げる旗印はしごくシンプルである。同時にものすごく既視感がある。</p>
<p class="noind">「偉くなろう。偉くなって、正しいことをしよう」<br><span class="ind"></span>うん、寒い。（褒め言葉）</p>
<p>なにが寒いって、こんな感じのWe can do better的な世界観／温度感の言葉が日常のそこここに探せば見つかる、という事実が寒い。そんでもって、こうった上昇志向な耳触りの良い言葉に踊らされて、なかば宗教じみた盲目っぷりで礼讃しているフォロワーの言動が寒い。</p>
<p>現代人なら誰しも既視感がある「寒さ」だと思う。日常生活を見渡せば、簡単に見つかる「意識高い系」な言葉の数々。</p>
<p>書店のレジ横なんかに大量に平積みされている文字通り薄っぺらいハウツー本の新書、あるいは頭でっかちの意識高い系を大量養殖するための有料オンラインサロン。あるいは、NewsPicksのコメント欄。ビジネス街を走る電車やバス、タクシーといったモビリティの中に掲載されている広告の煽り文句。SNSに掃いて捨てるほど居る「自称○○」な意識高い系の人。</p>
<p>人生は方法（ハウツー）を学べば誰でも必ず成功できる平等なゲームであり、世界は可能性に満ち満ちている──という前提の上で展開される、こういった「意識高い系」な言葉の数々。ぼくはこういう安易なハウツー系の新書を書店で見かけたり、電車の中で実際に読んでいるリーマンを見かけるたびにカバーはそのままで中身を「ファイトクラブ」の文庫版にすり替えてやろうかしらと思ってしまうのだけど……</p>
<p>べつに、成功を目指すことを、野心を抱くことを愚かしいとは思わない。むしろ精神的な健康を保って生きるためには有効手だと思う。じゃあ何がこんなにいけ好かないのかというと、こういった意識高い系の言葉が持つ世界観、意識高い系の人々が有する空気感が鼻持ちならないのだ。</p>
<p>成功というゴールがあり、現在地点がある。両者の距離を隔てるのは「方法（ハウツー）」の蓄積である、というシンプルな世界観。全ての問題には最適解が存在し、その最も効率的な解決法（ハウツー）は誰しもがすぐに、必ず習得可能である、というファストで安直な価値観。</p>
<p>コミュニケーションの本質は、バラエティ番組のような「とくに意味のない会話」のことであるにもかかわらず、最近単行本か何かで読んだ成功者のサクセスストーリーをあたかも自分事のように語りひけらかし、抽象性の高いアクロニムとカタカナのビジネス用語を濫用して、やんわりとマウンティングを取るポジショントークのことをコミュニケーションだと錯覚しているような空気感／雰囲気。ヒトに興味があるフリをしながら、そのじつスマートに立ち回っている自分が一番好きなタイプの人間。彼／彼女らが醸し出す空気。それらすべてが、いけ好かない。否定はしない。</p>
<p>社会に出て、組織に所属し、仕事をする。１週間単位のカレンダーは息つく暇もない日常に忙殺されていく。上司からはさらなる高パフォーマンスを求められ、個人としても組織全体としてもさらなる「高み」を目指すような企業風土に個性が押し殺されていく。環境に圧されて、なんとなくポージングだけでも「高み」を目指してみるか、と思った社会人がこういったハウツー系コンテンツに手を伸ばす。仕事で結果が出したくて、日々もがきながらそれでも解決策が欲しくて、サプリを摂るようにハウツー系に手を出したくなる気持ちは理解できる。</p>
<p>ぼくがいっかな理解できないのは、これらハウツー系コンテンツの過剰さ、夥しさである。会社の昼休みにコンビニで「１日分の栄養」が摂れると謳うサラダがすぐに買えるほどの手軽さ／手頃さで、「ハウツー」が摂取できてしまう現今の状況。あまりにも気軽に、ファストに、コンビニエンスに摂取できてしまうナレッジ＝ハウツー。この過剰さ、手軽さ、アクセスの容易さ。まるでポルノだ、と思う。</p>
<p>リアルもネットも、ハウツーが渋滞しすぎている。先日、個人用ナレッジベースのトレンドを検索しようと思ったら、検索トップに出てきたタイトルは「エビングハウスの忘却曲線をまだ信じてるの？効率の良い学習方法」だった。この何でもかんでもハウツーというフレームで解決できるという万能思想に名前をつけたい。問題の本質から目を背け、問題の本質を議論することを巧妙に避けながら、表層を撫でるだけで満足する傾向に名前をつけたい。そう切実に思う今日このごろ。</p>
<p>で、くだんのSIX HACKがやっているのはまさにこれで、昨今の「意識高い系」クラスタの思潮に疑問を投げかける。いや、投げかけるなんて生半端なもんじゃない。ぶん投げてる。</p>
<p>猫も杓子も「もっと高みへ」と異口同音に言うけれど、あんたらの言う「高み」とは何ぞや？と一石を投じ、熱病じみた盲信っぷりに一時停止を促す。そして、この疑問の呈し方がじつに巧みなのだ。京都人的な本音と建前のあわいを衝いているというか、本心をひた隠しにしながら、本心と真逆のことを主張することで、それとなく視聴者に察するよう促す、というか。</p>
<p>この番組、一見すると豊島晋作さんが出てきそうな感のある「ビジネス番組」の体裁を保っている。（テレ東のワールドポリティクス、いつも観てます）</p>
<p>意識を拡張しよう（Conscious Expansion）という、それっぽいお題目のもと、モダンな内装のスタジオが用意され、番組MCがテーマに沿って現代をサバイブする効率的な有効手を伝授していく。お題を説明するVTRが流れ、スタジオに居る観覧者たちに話題が振られ、有識者ポジションの樋口さんがロジック面で保証を与えていく。</p>
<p>第１回目の放送では、会議を制圧する手練手管が伝授される。といってもその内実は詭弁と中小性で相手を煙に巻く、という実質的に無内容なものになっている。VTRが流れた後、MCの女優さんがスタジオでその詭弁っぷりを実践するのだけれど、それに対して樋口恭介さんが「うん、素晴らしいですね」とコメントしていてもう爆笑。なんだこのシニカル具合、シュール度合いは。もはやファイトクラブやないか。</p>
<p>さらに第２回目ではSNSが俎上に載せられ、とりわけ炎上について様々な手練手管が（これまた無内容なのだが）披露される。このテーマに関して、実際に炎上経験のある樋口さんがどんなコメントを（有識者というロールを演じたうえで）するのかな、とワクワクしながら観ていたのだけれど、これがまた樋口さんっぽくて大爆笑。</p>
<blockquote>
<p>炎上とはある種の概念上の破壊行為である。<br>
破壊こそが創造になっている時代。<br>
あらゆる炎上というのは良いも悪いもなく、すべて破壊であり、破壊は良いもの。ゆえに、すべての炎上はいいものである。</p>
</blockquote>
<p>もはやデビュー当時のガンズ・アンド・ローゼズ。メタリカ。あるいはカート・コバーン……いずれにせよ、尖りまくっている。思想的な意味においてバチバチにパンクである。いや、樋口さん自身、素敵な文章を量産する文化人なジェントルマンであると同時に、なかなかどうしてパンクなアウトサイダーでもあり、この相反する２つの性質を包含しているゆえにぼくは樋口さんのファンなのだけど、今回はいい意味で期待を裏切られた（笑）</p>
<p>コメンテーター枠、有識者枠で番組に登板しているのかと思いきや、ばちばちにパンク枠として出演してるやないか。めちゃくちゃ笑いました。いやぁ、シニカルでダークな笑いだなぁ。</p>
<p>兎にも角にもこの番組、ブラックジョークすぎます。ジョナサン・スウィフトのようなシニカルな諧謔性。シンプソンズ、あるいはブラックミラーのようなブラックジョーク感。アダム・マッケイ監督、チャック・パラニュークのような、どこか人を食った童心の悪戯心。なんと表現するのが適切なのか難しいところだが、とにかく笑えます。抱腹絶倒は必至。ぼくは吉本新喜劇と同程度に笑えました。</p>
<p>この番組が面白いのは、視聴者にすべてを委ねきっている点だと思う。ぼくはこの番組を観始めた時、正直とまどった。「なんだこれ、訳がわからない」「俺は今、いったい何を見せられているんだ」──エブエブを観た時と同じような軽い混乱を味わった。けど、同時にそれとなく「これはジョーク（虚構）なんだな」と察し、そうすると笑いが止まらなくなった。</p>
<p>ぼくはブラックコメディとして見たけど、そういうふうに見るよう演出されているわけではない。番組の内容それ自体がモキュメンタリーという虚構であり、ゆえに実質的に無内容であり、それを観て何を感じ、何を持ち帰るのかはすべて視聴者に委ねきっている。意識高い系をやり玉に挙げているわけでもなければ、そういう言説を揶揄したり茶化したりしているわけでもない。でもそういうふうに受け取ることもできる。この絶妙なバランス感覚がめちゃくちゃ面白い。</p>
<p>SIX HACKは一見すると普通のビジネス番組だ。けど、観始めると番組のそこここに「ん？」という小さな引っ掛かりを感じる点が意図的に転がっていることに気づく。</p>
<p>現代的で瀟洒なスタジオセットなのに照明は暗く、後景に座している観覧者たちの顔から上が見えないようなライティングがなされていたり、フリーメーソンのシンボルでもある「プロビデンスの目」っぽい要素がタイトルデザインに採用されていたり、再現VTRの登場人物に何故か目が描かれていなかったり、再現VTRの映像がなぜかフィルム風加工されて左右に小さく振動していたり。そして極めつけはエンドクレジット後に流れる映像である。（裁判所に置かれている正義の女神《テーミス》が目隠しをしているのは、物事の見かけにとらわれず、真実を見抜くことを意味している。これを踏まえれば、再現VTRの人物に目が描かれていないことにシニカルな意図を感じないだろうか）</p>
<p class="noind">「俺は今、いったい何を見せられているんだ……」と感じるもの。</p>
<p>訳のわからないもの。</p>
<p>批評家のマーク・フィッシャーは、訳のわからないものに「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」というラベルを与え、両者を区別した。フィッシャーによると「ぞっとするもの」とは行為主体性の問いであり、「奇妙なもの」とは「家庭的」なものと「非家庭的（ウンハイムリッヒ）」なものの関係性のことだという。見慣れたはずのものを、見慣れない形で表現したSIX HACKは、フィッシャーの区別に倣うと、まぎれもなく「奇妙なもの」に属する。</p>
<p>何を見せられているのかわからない。軽い混乱と混沌が面白いと感じるコンテンツ。</p>
<p>こういうのをテレビ番組で観られるのは貴重な経験だと思う。今ならYoutubeで気軽に観られるので、未見の方はぜひこの機会に。最近あんまり笑ってねぇな、という笑いに飢えている方も是非ごらんあれ。</p>
<blockquote>
<p>パンクはアウトサイダーの味方であり、自発的なアウトサイダーである。パンクは多数派が顔をしかめるような異質な存在であり続けることで、多数派の価値観に疑問を投げかけ、相対化し、破壊し、新たな世界の可能性を提示し続けるものである。<br>
（中略）<br>
G.B.Hのコリン・アブラホールは、「スーツに身を固めたビジネスマンでも、アティチュードがパンクならそいつはパンクスだ」と言っている。</p>
</blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>アブソルート・コールド</title>
    <link>https://indi-visual11.com/absolute-cold/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-absolute-cold</guid>
    <pubDate>Mon, 15 May 2023 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>本</category>
    <description>令和日本に放つサイバーパンク巨編</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p class="noind">「令和日本に放つサイバーパンク巨編」──こんな惹句が帯文に書いてあったら、買うしかないじゃないか。そういうわけで、結城 充考さんの新刊『アブソルート・コールド』を読んだ。「サイバーパンク」というキャッチーなフレーズに惹かれて買ったのだけれど、ぼく自身、サイバーパンクに明るいわけでもない。ブルース・スターリングとウィリアム・ギブスンを読んで、リドスコの『ブレードランナー』を観た、という程度のミーハーでしかない。</p>
<p>学生時代、PSYCHO-PASS第1期がリアルタイムで放送していた。劇中で、かの槙島聖護大先生がウィリアム・ギブスンに言及していて、ミーハーなぼくはさっそく書店に『ニューロマンサー』を買いに行ったものだった。煩悩に塗れた思春期のボンクラ学生だった当時のぼくにとって、『ニューロマンサー』はぶっちゃけよくわからなかった。「うん、なんかすげぇな」という、漠とした衝撃は受けたものの、物語の筋道がよくわからなかったのだ。</p>
<p>PSYCHO-PASSの第一期が放送されてから10周年。時は進んで令和５年、2023年──『ブレードランナー』の時代設定であった2019年を軽々と追い越した現代。『ニューロマンサー』で”サイバーパンク”の洗礼を（知らぬ間に）受けたボンクラ学生は大人になり、「サイバーパンク」の思想的な定義とジャンル的な定義を区別できる程度の分別はついた（はず）。</p>
<p>話は逸れるけど、10年経ってから第一期のPSYCHO-PASSを見返してみると、けっこう真面目にSFしていて感動してしまった。いや、公安局刑事課の入っているビルの外観はもろにブレードランナーのLAPDだし、猥雑とした繁華街やネオンサイン、雨が降った陰惨な空気感、エスタブリッシュメントからプロレタリアートまであらゆる社会階層の人々を使って世界観の奥行きを描写する方法なんかも「ほぼ」まんまブレードランナーなんだけど、それは脇に置くとして、スペキュレイティブ・フィクションとしてのSFという意味合いで、ちゃんとSFしてるなと思った。</p>
<p>犯罪計数という数値によって国民を「犯罪者」と「それ以外」に二分化するシビュラシステムという御託宣。幸福な生活を倦まず弛まず追求し続けた結果、臨界点に達して飽和しきった社会システムと法制度。シビュラシステムのある社会は、一見するとオーウェルが描くような、あるいはソ連が敷いたような縦割り構造の管理社会のように見える。だが実相はもう少しニュアンスが異なっていて、「人類にとって、真の幸福とは何なのか」という、古今東西の哲学者たちが追求してきた命題をシビュラシステムというSFガジェットでもって炙り出そうと試みる、紛う方ない思弁が物語世界の背景に織り込まれている。</p>
<p>社会学的に定義される「幸福」と市井の人々が願う土着的で生々しい「幸福」の定義は異なる。人間は理性的な存在であると同時に動物であり、それゆえ欲望やら感情といった厄介な変数によって行動に影響を受けやすい存在である。我々は塩基対に還元されうる肉の塊でしかなく、劇中の宜野座のセリフを援用するならば、「歴史に学んで」いても、結局のところ自らの経験を通すことでしか何事も体得しえない愚かでちっぽけな存在である。</p>
<p>とまあ、そういった具合の思弁をイケメンキャラクターとドミネーターという中二心くすぐるガジェットと、虚淵節ともいえる粘着質でヘヴィな人間ドラマでいい塩梅に調理したのがPSYCHO-PASSというエポックだったんだな、と気づいた今日このごろ。（PSYCHO-PASSについては、また改めて別記事にて色々と書こうと思う）</p>
<p>サイバーパンクの文学面における金字塔は『ニューロマンサー』だが、それをいみじくも映像化してみせたのは『ブレードランナー』だった。そして、『ブレードランナー』をビジュアル的に踏襲した『PSYCHO-PASS』には、理の当然としてサイバーパンクの残り香がただよう。それは繁華街、スラム街の持つ猥雑とした雰囲気のことであり、市井の人々の息遣い──ある種の泥臭さ、のことだ。そして、「令和日本に放つサイバーパンク巨編」を謳う『アブソルート・コールド』は、この”泥臭さ”で溢れている。結論から言うと、この作品、めちゃくちゃストレートにサイバーパンクでした。一応、ネタバレはなしで書いていくけど、それでも気になるという神経質な方はブラウザバック推奨。未読でこの記事をここまで読んだあなたは今すぐAmazonで本を注文すべし。ほな、行きまっせ。</p>
<aside class="synopsis"><div class="synopsis-label">あらすじ</div>
<p>隣接するK県と対立する見幸（ミユキ）市は、とあるメガ企業によって実質的に支配されている。生命工学から情報技術まで幅広く扱う佐久間種苗がそれである。この佐久間種苗の本社にて、細菌兵器がばら撒かれ、社員百数名が殺害されるテロが起きる。</p>
<p>物語は三人の視点で進行する。ABID（アブソルート・ブラック・インターフェイス・デバイス）と呼ばれる最先端技術を使って事件を捜査する捜査官、来未由（クルミヨシ）。元刑事で今は興信所を細々と続けている酒浸りの男、尾藤（ビトー）。貧困街である高層世界に住む少女、コチ。</p>
<p>事件を捜査するにつれて、佐久間種苗がひた隠しにしていた「とある計画」の存在が明らかになる。</p>
</aside><h2 id="sec-1">感想</h2>
<p>いやぁ、じつを言うとワタクシ、面白すぎてイッキ読みしました。語感のセンス、散りばめられたディテール、匂い立つ世界観。必要以上にひけらかさず、押し付けもせず、しかし読後に振り返ってみると物語世界が総体として立ち上がってくるような、SF設定の数々。いやぁ、面白かった。</p>
<p>この作品、世界観というか雰囲気、空気感の作り方が最高にクールなんですよ。登場人物の名前をとってみても、来未由（クルミヨシ）とか、花城（ハナグスク）とか、オルロープ雫とか。（オルロープに関しては、最後に伏線回収まであってたまげた）</p>
<p>ルビの振り方もSFっぽさがゴリゴリで、圧縮機《コンプレッサ》とか、無人飛行機《ドローン》とかはSF読者にとっては想像の範疇というか、俺は今SFを読んでいるんだぞ、と自己を再確認して安心できるから好き、といった感じの既視感のあるルビだと思うんだけど、埋め込み装置《インプラント》とか、路上強盗団《ロードランナー》とか、ABID《アブソルート・ブラック・インターフェイス・デバイス》とか、このあたりのルビになると、思わず居住まいを正してしまうはず。（『ニューロマンサー』に於ける攻性防壁の略語はICEだったし、サイバーパンクをエロゲで実現しようと試みた『バルドスカイ』は、防壁にICEというルビを振ってSFファンにささやかなウインクを送っていた）</p>
<p>かと思いきや、あえて「メール」のことを「メイル」と表記していたり。このあたりの語感というか、言葉遊びのセンスが最高にクール。そもそも、物語の舞台となる見幸市に隣接するのが「K県」っていう時点からしてニヤニヤが止まらない。数々の文学作品で繰り返し現れる「K」の文字。適度に抽象化するための意匠としてのアルファベット。</p>
<p>こういった言葉遊びのセンスも刺さったのだけれど、世界観を構築するSF的なディテールがもう最高。サイボーグがいたり、通信端末が人体に埋め込まれていたり、空間に情報をディスプレイするための室内に発行微生物を充満させたり。本来は統一されていた行政単位が、それぞれの思惑から対立し、市が分裂した、という設定とか。</p>
<p>ディテールの例をさらに挙げれば、作中で市境警備隊が使用するのはライオットガンでもなければ、M1ライフルでもなく、狙撃自動拳銃。ストックとバレルを伸ばし、接眼レンズを引っ張り出して狙撃する。かくも技術的に発展した時代なら、銃器が小型化するのは当然だし、越境してくる市外の部外者の足を止めるのに適切なマンストッピングパワーを持った銃器となると、この時代の拳銃レベルの威力がが適切解なんだろうな……とか、背景情報をアレコレ想像しながら読んでいました。</p>
<p>そんでもって、物語の舞台となる見幸市にはモノレールが走っている。外部との接触が途絶えた見幸市という構造を考えれば、市内の交通手段としては全体をまんべんなく周回する環状線構造の鉄道が一番合理的なんだろうし、限られた都市空間を少しでもムダにしないようにとの配慮からモノレールが採択されたんだろう（たぶん、知らんけど）</p>
<p>ディテールを挙げればキリがないけど、特筆すべきは見幸市の特異に発展した社会階層だ。この世界、高層ビル群の最上部（屋根の上）に住んでいるのが貧民で、中流以上の人々は下層に住んでいる。上層と下層をつなぐ階段には税関のようにゲートが設けられていて、当然のことながら通過するには事前に屋上組合に申請が必要となる。</p>
<p>一口に市民と言っても、その中には歴然たる身分階級が存在し、純市民ではない人々──仮市民たちは仕事にもあぶれて自ずと上層世界に住むことになる。その結果、上層世界は貧民窟と化し、治安は悪く、司法の手が届かない無法地帯となっている。この世界、電気を発電したり、蓄電したりして、その電気を売買できるらしく、日照権すらも売買の対象となっている。そういった社会インフラを運用するために必要不可欠な歯車として、上層に住む人々は様々な仕事を受け、細々と生活を送っている。</p>
<p>さらにこの上層世界には「電気連合」やら「高サ」といった組合が存在し、この組合が仕事の割り振りから個人融資など、上層人たちの生活すべてを牛耳っている。この一見するといびつな形で発展している上層世界の構造だが、読み進めていくと、混沌とした中に秩序があるとわかってくる。この混沌と秩序のバランス感覚というか、様々な要因が複雑に絡み合った結果としての乱脈具合がいい。良いよね、こういう猥雑とした空気感。これぞサイバーパンク。この泥臭さこそ本物よ。</p>
<p>とまぁ、ネタバレを踏まない程度に紹介しようと思ったら、ディテールを列挙しているだけの痛いブログに成り下がってしまったのだけれど、本作の面白さはSF的な設定だけに留まらない。物語の中核に据えられたAI──電子生命をめぐるSF的な思考も面白かった。</p>
<p>例えば……電子空間上に存在する思考体──押井守『攻殻機動隊』におけるプロジェクト２５０１のような存在──彼／彼女にとっての快楽とは何なのか？肉体に縛られない電子的存在である彼／彼女にとって、肉欲や金銭欲、支配欲といった卑俗な欲望は無縁の代物だ。彼は純然たる思考体であり、人間が食を欲するように知識だけを欲する。知識を得ることが快楽となる。娯楽として提供される知識──それがもし、○○知識だったら？という「ワットイフ」に基づいて、本作のクライマックスが展開されていく。こういうアクロバティックな思考はSFの醍醐味だと思う。</p>
<p>もう一点、個人的にSF的な面白さを感じたのは、「自己の電子複製をつくることは実質的な死と同義である」という問いだ。最近よく聞く、自分の電子的な複製をサイバースペース上に構築する、という試み。もし、自己の完全な電子複製を作ったとして、自分自身が電子空間に遷移するわけではない。物理現実の自分は肉体ごと「こちら側」に残される。幾人もの人格を電子空間上に複製し、故人と一緒にサイバースペースで不死の生活を送ろうとしたところで、その幸せを享受するのは「わたし」の複製である「わたし」であり、現実世界の「わたし」は自己の複製が幸福に浸っている様を傍観するより他にない。うーん、こういう生命工学やら自我が絡んでくるSF的な「ワットイフ」って面白いよね。</p>
<p>異邦の中にフェティッシュとして放り込まれた日本文化ではなく、見慣れた日本の原風景を数々のSF的ディテールで装飾し、「既視感があるけれど、ここではないどこか」を地に足のついたリアリティで構築したSF的世界観──その中をキャラクター達が縦横無尽にアクションしまくる様は読んでいて非常に気持ちが良かった。</p>
<p>未読の方はぜひ書店へ。<br><span class="ind"></span>既読の方は思い出して余韻に浸ってください。</p>
<p class="noind">「紙の本を読みなよ。電子書籍は味気ない」</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>書きたがる人種</title>
    <link>https://indi-visual11.com/kakitagaru-jinshu/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-kakitagaru-jinshu</guid>
    <pubDate>Tue, 09 May 2023 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>ムダになるとわかっているから書ける</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>受かるアテもない新人賞にひたすら小説を投稿し続ける人の話をどこかで読んだ（あるいは聞いた）。９９％がムダになるとわかっていながら、それでも書き続ける人の話だ。どうしてムダになるとわかっているのに書くのか、と尋ねられたその人は次のように答えたという。「ムダになるとわかっているから書けるんじゃないか」。</p>
<p>どうして人は文章を書きたがるのか。いや、正確を期すなら「どうして書きたがる人種がいるのか」と言ったほうがいいか。世の中には間違いなく「書きたがる人種」という厄介な手合いが一定数存在する。かくいうぼくもその一人だが、取り立てて文章にしたためる主題もないのに「書きたい」という欲求が先行して、愚にも付かない私文（あるいは死文）を量産してしまうような手合いのことだ。</p>
<p>これもどこかで耳にした話だが、世界中に存在する星の数ほどもあるブログのうち全体の約３割強は日本語で書かれているそうだ。そのほとんどは取り留めもない日々の出来事や、溜め込んだ鬱憤や愚痴なのだろう。あるいはオンラインで拾った情報を継ぎ接ぎしただけのパッチワーク的なハウツー記事か。いずれにせよ、内容が希薄であることに変わりはない。</p>
<p>質の如何はさて置くとして、「書きたがる人種」の多さを示す傍証として、３割強という数字は無視できない。さらに数字を引用するなら、Twitterのユーザー数においても、日本は世界ランク２位だ。初期は１４０文字という制限だったのが、今では最大４０００文字になった、というニュースは記憶に新しい。あの小さいテキストボックスにそんな文量を入力するモチベーションも末恐ろしいが、イーロン・マスク買収後の右往左往という表現がぴったりくるような度重なる仕様変更を経てもなお必死にしがみついているユーザーの執着っぷりも呆れるのを通り越して恐ろしい。</p>
<p>Twitter(現X)から国内に目を転じれば、noteというブログサービスが今なお根強い人気を誇っている。一億総クリエイターを謳っているものの、蓋を開けてみれば一億総評論家を量産しているだけのような気もする。ぼくは他人の書いた文章を読むのが好きな質だから、はてなブログやNoteのトップページから、面白そうな記事を求めて探索することが多いのだけど、そこで目にすのは玉石混交で、ぼくが探しているのは「玉」のほうなのに、まぁ「石」が多いのなんの。いわく、「○○に行ってきました」。いわく、「Noteやめます」。いわく、「〜で○○するの止めたら人生変わりました」。こういった、どこかで見たようなタイトルの記事を誤操作でタップしてしまった時、口にする言葉は毎度決まっている。</p>
<p class="noind">「知らんがな」</p>
<p>そう、知らん。知らんがな、に尽きるのである。誰もお前のことプライベートになんか、ましてやどこの馬の骨とも知れん没個性的な「個」が、何をしてどう感じようが、毛ほども興味はないのである。それをつらつらと口語体と文語体が混合したなんちゃって文体で書き連ねやがって……このガキャぁ……</p>
<p>閑話休題。<br><span class="ind"></span>話をもとに戻すと、どうしてこんなにも「書きたがる人種」が多いのか、という疑問に立ち返ってくる。書きたがる人種、とりわけ、とくに書く主題もないのに書こうとする人間がかくも多いのか。人様を詰っておいて責任逃れする気もないので明言しておくと、かくいうぼくもこの「人種」の中に含有される。</p>
<p>だが、どうして……？<br><span class="ind"></span>なにゆえ、かくも多いのか、書きたがる人種は。Why Japanese ピーポー</p>
<p>おそらく、ぼくも含めてこの「書きたがる人種」という連中は、欲求ではなく欲望のレベルにおいて書かずにいられない人たちなのだろう。ある程度社会性を帯びる欲求の次元ではなく、もっとラディカルかつ動物的な、欲望のレベルにおいて書いてしまうような手合い。</p>
<p>ここでより明瞭化するために、まずは欲望ではなく欲求で書いている人について考えてみたい。欲求で書く人というのは、あらかじめ主張したい事柄が先行して、それを他人に伝えるために書くこと──書く動機が自分の内ではなく、外に向いている人。つまり、書くという行為が社会的な領域に向けて開かれている人のことだ。ことばが世界を切り取るツールであり、文章には情報と感情というたしかな意味が宿っていることを十全に理解し、書くという行為は文を媒介した他者とのコミュニケーションであるという前提に従って文章を書くような人たちのことだ。文壇に名を連ねる文化人たちや、言葉を生業とする人たち、といった有名な、パブリックな書き手が好例だろう。</p>
<p>では、ぼくも含めたオンラインに星の数ほどもある路傍の石のような駄文を書き連ねている欲望レベルで駆動する書き手は一体なんのか。先に挙げた「欲求で書いている人」ではない、それ以外の人すべてが該当する。冒頭に挙げたエピソードと同じく、９９％がムダになる──「知らんがな」に帰結するとわかっていながら、それでも書かずにいられない性情の人々。欲求レベルで筆を執る文化人と違って、ぼくたちの書くことばはもっと動物的で、情動にまみれていて、ともすると卑猥な香りすら漂う。それは、ただ「書きたい」という欲望に突き動かされたまま書かれたことばであり、己を切り売りしたささやかなカミングアウトであり、世間的に見て、まったくもって無価値なものだからだ。だが同時に、無価値だとあらかじめわかっているがゆえに書けるのだ。あらかじめ９９％がムダになるとわかっているから書けることば。</p>
<p>書かれた文章それ自体ではなく、書くという行為、その過程に価値を見出す倒錯した感覚。日常生活の中で無意識のうちに感じていた事柄を言語化することによって輪郭を付与し、眼前に晒して取り扱える状態にするということ。パソコンの前に向かい、文章を書きながら己の内から吐き出された言葉を通じて自己を客観視するということ。書き出された言葉は自分の内から生起したはずなのに、いざそれを目前にすると自分のものだとは到底思えない（あるいは思いたくない）、という拭い難い違和感。録音された自らの声を耳にした時のような、あるいは写真に写った自身を目にした時のような、羞恥をともなった違和感を感じながら、それでもぼくたちは書き続ける。</p>
<p>ぼくのような人種にとって書くという行為は性欲や食欲と同じ次元に属するものだからだ。書くことは考えることであり、こうして今文章を書きながら同時に、書いているぼくという行為主体は更新され続ける。この感覚が好きだから、ぼくも含めた「書きたがる人種」は、オンラインに生息する名もなき無数の個は、かくも無価値な文章をサイバースペース上でスプロールし続けているのではないだろうか。</p>
<p>読まれるアテのない文章群。私文あるいは死文。
時々、想像することがある。小役人として生涯を終えたカフカは、いったいどんな気持ちで小説を書いていたのだろうか。もし現代にカフカが生きていたら、彼にとってのツイートは小説という形でしか表現できなかったのではないか。人生があまりにも短すぎるように、自己を切り売りするのに１４０文字という制限は厳しすぎる。かといって４０００文字でカミングアウトできるほど人生は薄っぺらくない。だから人々はブログを書くのだろう。</p>
<p>そういうわけで、これからアテのない文章を書いては、このブログにせっせと投稿していくことにする。その行為自体に何か価値があるとは思わない。ただ書きたいから書く。そんな欲望垂れ流しの場所にしたいと思う。</p>
<blockquote>
<p>「ことばで伝わらないものが、たしかにある。だけど、それはことばを使いつくした人だけが言えることだ。
だから、ことばというやつは、心という海に浮かんだ氷山みたいなものじゃないかな。海面から出ている部分はわずかだけど、それによって、海面下に存在する大きなものを知覚したり感じとったりすることができる」<cite class="quote-source">— 銀河英雄伝説 ヤン・ウェンリー</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>サイコパス プロビデンス</title>
    <link>https://indi-visual11.com/psycho-pass-providence/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-psycho-pass-providence</guid>
    <pubDate>Tue, 22 Nov 2022 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>映画</category>
    <description>シビュラシステムは神ではない</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>この２週間というもの、サイコパスシリーズを第１期から全部観直していた。仕事を終えて帰宅し、サイコパスの世界にどっぷり浸かりながら、改めて『サイコパス』という作品の魅力についてあれやこれやと思量するのは、なかなか贅沢な時間だった。</p>
<p>で、先日、最新作たる劇場版『プロビデンス（PROVIDENCE）』を観てきた。</p>
<p>いやぁ、面白かった。</p>
<p>改めてシリーズ全部復習してから劇場に行った甲斐があった。だってこの映画、第１期の放送開始から１０年超、シリーズを追いかけ続けてきた人に対する最高のファンサービス映画だったんだもの。しかも「映画」としても面白かった。</p>
<p>あ、先に書いておくけど、ここから先はネタバレ２００％で書き散らしております。未見の方は即座にブラウザバック推奨。それから、本稿はおそらくそこそこのボリュームになるはずなので、時間のない方は気になる箇所だけ拾い読みしてください。ほな、行きまっせ。</p>
<h2 id="sec-1">総評</h2>
<p>この映画、サイコパスシリーズの中でも特異な位置づけの作品だと思う。なにせ、作品の結末で常守朱が隔離施設に入ることを観客はすでに知っているのだから。結末が分かっていても観てしまう、という点ではフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』と同じ宿命を背負っていると言える。公開前の時点ですでに「TVシリーズ第２期と第３期のミッシングリンクを繋ぐストーリー」であるとアナウンスされていから、予め定められた結末に向かって収斂していくコンパクトな物語なのかしら、と推測していたらびっくら昆布。全然コンパクトじゃない。むしろエピック。壮大。劇場の大きなスクリーンに相応しいスケールの大きい物語にド度肝を抜かれました。</p>
<p>ぼくはこの映画、めちゃくちゃ楽しみました。いやぁ、ほんまに面白かった。</p>
<p>てか、狡噛がカムバックした挙げ句、ドミネーターまで持った日にゃあんた。もう涙腺ガマンなんてレベルじゃないですよ。いくらレイトショーで客席ガラガラだからといって、いい歳こいた大人が湿っぽい鼻水の音を鳴らしながら感涙するのはさすがに赤面案件なので、気弱なぼくは「もし涙がこぼれてもすぐに拭えるよう」という浅慮から、頬杖をつく、というカモフラージュをかますことで感涙のマジノ線を構築したわけです。</p>
<p>結果、無駄でした……</p>
<p>劇場に入る前、あれだけ泣くまいと心に誓った自分はどこへやら、ぼくの涙腺はエリコの壁よろしく瞬時に崩壊。カモフラージュをかまして構築したマジノ線はあっけなく瓦解。てかね、この映画、ファンサっぷりがエグいのよ。どれくらいエグいかというと、『名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌』なみにエグい。
（まぁ、『探偵たちの鎮魂』の場合はオールスター全員集合というファンサで、本作『サイコパス プロビデンス』のファンサは同じアッセンブルでもベクトルも違えば文脈も違う。と言えば元も子もないけど）</p>
<p>と、ただ感情を吐露しまくったところで読み物としてはゴミだと思うので、面白かった点を具体的に挙げていきたい。個人的に刺さった点は３つある。まず、映画として面白かったこと。次に、シリーズを追いかけてきたファンにきっちり報いてくれるサービス要素。それから、サイコパスの世界観をさらに拡張し、次の展望に繋げたストーリー。この３つだ。</p>
<p>ストーリーやテーマといったヘヴィな内容は後述するとして、まず「映画」と「ファンサ」について取り上げたい。</p>
<h3 id="sec-2">１本の映画として</h3>
<p class="noind">『サイコパス プロビデンス』はサイコパスというアニメシリーズのディケイドを継ぐ劇場公開作品だ。なにを今さら、そんな自明なことを。「頭、湧いてんのか？」という野次が飛んできそうだけど、これは本作が一本の「映画」として面白い、と主張するための確認事項だ。本作は「劇場版アニメ」でもなければ「アニメの劇場版」でもなく、映画原理主義的な意味に於いて１本の「劇映画」として成立している。</p>
<p>本作が、ただ劇場スクリーンサイズに最適化されただけのアニメ作品（でっかいテレビに流れるアニメ）ではなく、１本の劇映画として成立しているのは冒頭から明白だ。公開上の船舶でピースブレイカーと外務省行動課が戦闘を繰り広げるアクションシーン。なんとなく『ボーン・アイデンティティ』っぽい絵面だな、とは思ったけど、狡噛がムササビスーツで輸送機から降下した瞬間、すぐ腑に落ちた。「ボーンっぽい」んじゃなくて、「ボーン」なんだ、と。</p>
<p>開巻劈頭から惜しげもなく振る舞われる豪華なアクションシーンは、今作には「冒険小説的」な要素が、「スパイ映画的（謀略小説的）」な要素がありますよ、これは単なる刑事ドラマじゃないんですよ、という高らかな宣言に他ならない。</p>
<p>そう、本作はサスペンス映画にとどまらず、スパイ・アクション映画的な要素に満ち満ちている。冒頭のアクションシーンに続く次のシーンでは、逞しく成長した朱ちゃんが各省庁のお歴々を相手に口角泡を飛ばしている。エグゼクティブなおっさん達が長卓を囲んで議論するのは、冒険小説・諜報小説の十八番シーンだ。そして本作には慎導篤志と矢吹局長という２人のメイン官僚キャラが用意されている。</p>
<p>さらに極めつきは「ストロンスカヤ文書」というマクガフィンだ。ヒッチコックの時代から、スパイ映画に於いてマクガフィンは「機密文書」であると相場は決まっている。「文書」という名称になっているが、その実態は世界各地で起きる紛争を数値化した「紛争計数」の算出方法。ストロンスカヤ博士の専門分野を考慮すれば、おそらく理論モデルかシミュレーションモデルなのだろうけど、これをわざわざ「文書」と命名するのは、冒険小説／スパイ映画的に対する目配せだろう。</p>
<p>そもそも、今作のヴィランたるピースブレイカーの設定からして、もう冒険小説／スパイ映画の匂いがぷんぷんする。ピースブレイカー、その正式名称を「外務省 海外調査部現地調査隊」。準軍事作戦を行う外務省の海外実働部隊であり、現在は解体され、海外で破壊活動を行う武装集団に成り下がっている……要するにこれ、CIAにおける特別行動部隊（SAD）みたいなもんでしょ。まぎれもなくパラミリやん。</p>
<p>本作が冒険小説的／スパイ映画的であることは、クライマックスのアクションシーンからも見て取れる。国家樹立を宣言し、日本政府、ひいてはシビュラシステムに色相判定を要求するピースブレイカーの本拠地である北方諸島。極寒の孤島に強襲揚陸艇で潜入する朱ちゃんと狡噛たちの姿は、さながらメタルギアのよう。</p>
<p>話は逸れるけど、この北方諸島、劇中のセリフで「機械が自己増殖した結果生じた」と、こともなげに説明されている。ヒトの手を離れ、プロトコルに従って自己増殖を繰り返す機械たち──グレッグ・イーガンのSF短編にありそうなSF的設定に、ぼくはニヤニヤが止まらなかった（サイコパスシリーズって、こういうSF的なガジェットをさり気なく放り込んでくるんだよね。シーズン３で大々的に描写されていた「廃棄区画」の設定だったり、シーズン１の終盤で突如明かされた日本の食料自給問題、「ハイパーオーツ」の設定だったり）</p>
<p>過去に公開された作品も含めて、サイコパスの劇場作品はアニメ作品である以前に、常に「映画」であろうとしてきた。意識的に「映画」であろうとしてきたし、「映画」であることに自覚的だった。劇場版の第１作目では英語というツールを使って、ブレードランナーと同じ演出を試みていた。</p>
<p>理解できない意匠としての言語／外国語──英語。かつて『ブレードランナー』でリドスコが文化的コードとして、世界観を補強する背景美術の一部として日本語を使ったように、劇場版サイコパス第１作目は、映画という空気感を演出するツールとして英語を使っていた。</p>
<p>劇場版２作目『ファースト・インスペクター』では、限定された空間内でのサスペンスを描いていた。緊張感を高める舞台装置としての限定空間──第１期から長らく描かれ続けてきた公安局のビルがその舞台という逆転の発想。これ、映画の構造としては『ダイ・ハード』１作目と同じなんですよね。梓澤廣一が、厚生省ノナタワー地下に降りてシビュラシステムの真相を知る終盤まで、物語（事件）は公安局のビル内で起きていて、事件の収束とともに登場人物たちが限定空間から解放される、という構造もまさに『ダイ・ハード』。これが結果的に『ファースト・インスペクター』の「映画っぽさ」を補強していた。</p>
<p>そう、サイコパスシリーズの劇場版はアニメ映画であると同時に、「映画」であることにコンシャスな映画なのだ。そして今作『サイコパス プロビデンス』には、ぼくの大好きな冒険小説／スパイ映画的な要素が散りばめられていた。ぼくはもうこの時点で大満足でした。冒頭の狡噛ムササビスーツアクションを観るためだけに２回目観に行こうと思う。</p>
<h3 id="sec-3">横溢するファンサ、崩壊する涙腺</h3>
<p class="noind">『サイコパス プロビデンス』は映画として面白い。そんでもって、サイコパスというシリーズを追いかけ続けてきたファンに対する報恩がすごかった。ファンサがエグすぎて面白いというレベルを超越して、もはや尊かった。塩谷監督がTwitterで「サイコパスファンが気づくネタを１００個以上用意した」と公言しているのは周知の事実だが、いやはや……そんな余裕なかったですよ。</p>
<p>サイコパスシリーズの中でも１期が好きな人は多いと思う。なかには「サイコパスは１期しか認めん」という原理主義者もいるらしい。１０年超もシリーズを紡いできて、第１期が斯くも圧倒的な人気を獲得しているのは、狡噛と槇島という２人のキャラクターに依る部分が大きいと思う。もちろん、第１期は２２話という長尺だったとか、引用のオンパレードという文学的要素が濃厚だったとか、虚淵が居たからだとか、いろんな理由付けができると思う。けど、狡噛と槇島という２人の竜虎を抜きにしてサイコパス第１期の魅力について語るのは難しい。そう、みんな何だかんだ言っても、狡ちゃんが好きなんだ。</p>
<p>そんな、「みんな大好き狡噛慎也」が本作では主要キャラクターとして登場したうえ、喋る、走る、殴る、撃つ、とまあよく動き回る。シーズン２、３で狡噛ロスを噛み締めていた人々に「狡噛成分、足りてねぇんだろ。補給しとけ。おらよっ」と言わんばかりの大盤振る舞い。外務省行動課との合同捜査態勢が敷かれ、狡噛が古巣である公安局刑事課のオフィスに立っているシーンとか、もうヤバかったね。「狡ちゃん、色々あったけど戻ってこれたんだなぁ……」なんて、しみじみ感慨に耽り始めたらもう涙ガマンできなかった。劇場版１作目で宜野座が言ったセリフが狡噛との再会シーンとリンクしていて、時の経過を感じてまた涙。作中世界の時間と現実世界の時間経過が同じ、という設定になっているから、胸に迫る感慨もひとしおだった。</p>
<p>監視官として大成した朱のことを宜野座が慕っているのも時間の経過を感じさせた。長年の経験に依るお互いの信頼関係というか、現場指揮権を宜野座に移譲して、本来なら単独行動できない執行官に自由裁量を与えるシーンとか、その応答として宜野座が朱に「あなたも気をつけて」と返すところとか。いやぁ、挙げればほんとキリがないんだけど、こういった時の流れを感じるディテールが心に刺さる。刺さる、刺さりまくる……</p>
<p>作品公開前にYoutubeで観たキャストと監督の座談会によれば、宜野座の髪型がお団子になっているのは多忙を極めている、という設定らしく、この変化も２期のポニテ時代から時間の経過を感じさせる。（ラストの激闘を終えて、結んだ髪がほどけた時は、パト２のラストシーンを思い出してしまったけど。あれ？　忍さん……？　いや、それ言うなら中の人同じだから禾生局長か）</p>
<p>そんでもって、これが一番涙腺にキたんだけど、本作のアクションシーンで流れるBGMが第１期の「PSYCHO-PASS」なんだよね。この曲、作品のテーマ曲かつ看板BGMだから、シーズンが更新されるごとに毎度毎度、アレンジが施されているんだけど、第１期のオリジナル曲が一番しっくりくるのよ。第１期の１話目をリアルタイム視聴しているとき、OPクレジットでこの曲が流れて鳥肌が立ったのは今でも覚えている。そんなひときわ思い入れのあるBGMが流れるなか、狡噛と宜野座がシラットの技をキメながら銃をぶっ放す──もう、これだけでお腹いっぱい感がすごかった。このシーンが観られただけで、１８００円の木戸銭を払って劇場に行った甲斐があった。それくらい興奮した。</p>
<p>衒学的で難解なセリフをイケボで滔々と語る、みんな大好き雑賀譲二先生も登場するし、朱ちゃんに言葉を残して逝ってしまうし、これまで散々同人誌で描かれてきた狡噛と朱ちゃんの恋愛模様にも踏み込んでいるし、さらには試作型ドミネーターやら強襲型ドミネーターも登場する、というファン要素のオンパレード。ぼくは出島のシーンあたりから「ファンサが渋滞してる……」と心の中で呟き続けておりました。非常に細かいんだけど、ピースブレイカーの本丸を叩くクライマックスのアクションシーンで、狡噛と花城がドミネーターを持ったときに流れるドミネーターの音声ガイダンスが「使用許諾確認。限定ユーザーです」となっていて、ここでまたうるっときました……</p>
<p>これだけファンサ要素が横溢してるのに、慎導灼、炯・ミハイル・イグナトフ、舞子・マイヤ・ストロンスカヤといった３期の主要メンバーはもちろん、パスファインダーの２人も、法斑静火と彼の父親も登場する、という絢爛豪華っぷり。</p>
<p>これだけでもうお腹いっぱいなのに、第１期原理主義者が狂喜乱舞するであろう高偏差値文化系オタク要素まで盛り込まれている（ジュリアン・ジェインズの『二分心論』、コヘレトの手紙）という徹底っぷり。</p>
<p>ファンサが、ファンサが渋滞してる……</p>
<p>１０年超にわたってシリーズを追いかけ続けてきたファンの熱意に真摯に報いてくれる、素敵なサービスでした。本当にありがとう。感無量とはこのことよ。</p>
<h3 id="sec-4">閑話休題：気になった点</h3>
<p>ストーリーやテーマといったヘヴィな内容に進むまえに、閑話休題として作中で気になった点をいくつか挙げてみたい。</p>
<p>最も気になったのは、ラストシーンで朱に撃たれた禾生局長の肢体から紅い血が流れている点だ。あれはブラフなのか、それとも何らかの意図があるのか？　槙島聖護に頭蓋を粉砕され、鹿矛囲桐斗にエリミネーターで肉塊に帰され、劇場版２作目ではあろうことか公安局庁舎屋上から自ら投身……といった具合で、過去のシリーズで散々殺されてきた禾生局長。これまで幾度となく禾生局長の死体を観てきたぼくらは知っている。全身サイボーグである彼女の体液が人間のような赤色ではなく人工的な緑色であることを。</p>
<p>だが、衆人環視のただなかで射殺される、という朱の書いた筋書きにシビュラシステムが適合した──つまりアレは世間を欺くためのブラフだった、と考えるのが妥当だろう。そもそも全身サイボーグを９ミリかそこらの拳銃弾ごときで射殺できるとは考えにくい。よしんば弾丸が肢体を貫通していたとしても、第三者の目があるパブリックな場で緑色の血なんて流した日には、翌日のニュースが「公安局局長、サイボーグか？」というヘッドラインで埋め尽くされるだろうことは想像に難くない。</p>
<p>ここで気になるのが、くだんの射殺パフォーマンスを演じるにあたって朱とシビュラの間に何らかの合意があったのか、という点だが、これは何ら合意はなかったと考えるのが当然だ。シビュラシステムは自らを法と同格に押し上げ、日本国から「法」そのものを撤廃しようと画策していた。朱が射殺パフォーマンスを演じたのは、シビュラの企図をくじくためであり、他に選ぶところがなかったからだ。</p>
<p>とどのつまり、紅い血が流れているのはシビュラシステムが世間体に配慮したゆえだろう。唯一残る疑問としては、どうして禾生局長はあの場で倒れたのか、ということだ。全身サイボーグの身体に拳銃弾など痛くも痒くもないはずなのに、わざわざあの場で倒れ伏し、あろうことかブラフの血まで流す必要はあったのか？　朱が拳銃を取り出し、発砲したとき、今この場で死体を演じず平然としていた場合、世間に与える影響が如何ほどのものなのか──それを瞬時に計算し、シミュレートしていたと考えるなら、ユニット化された単一の脳とはいえ、シビュラシステムの計算能力は侮れないと言えるだろう。</p>
<p>禾生局長といえば、彼女から「落とし前をつけろ」とヤクザまがいの脅迫を受けていた慎導篤志のことも気になる。甲斐・イグナトフを射殺しても平然としていたことから、おそらく慎導篤志も免罪体質者なのだろう。禾生局長の言う「落とし前」とは、シビュラシステムに組み込まれることを指していると思われる。だから、自らの脳がシビュラに組み込まれるのを避けるために、慎導篤志は朗々たるスピーチの後、拳銃でこめかみを撃ち抜いた。</p>
<p>もう一点、気になったのは「ストロンスカヤ文書」のことだ。シビュラシステムを海外配備したときの影響をシミュレートした理論である、と劇中の序盤では説明されていた。だがのちに、その実相が世界各地で起きる紛争を「紛争計数」として数値化する方法であると判明。この「方法」が計算方法なのか、理論なのかは劇中でつまびらかにされていないが、ストロンスカヤ博士の専攻分野を鑑みるに、何らかの理論モデル、シミュレーションモデルである可能性が高い。</p>
<p>本作の終盤で、「紛争計数」という概念を取り込んだAIジェネラルをさらにマージしたシビュラシステム。シビュラシステムは、第２期のラストで「集団的サイコパス」という概念を新たに獲得し、常守朱に対し、個人に加えて集団もサイコパス測定の対象となる未来がそう遠くないうちにやってくる、という趣旨の忠告を与えていた。それらを勘案すれば、紛争という社会集団同士の争いをシビュラシステムが裁定できるようになる、と考えられる。シビュラシステムは第２期のラストで「集団」という概念を取得し、今作の「ストロンスカヤ文書」によって集団を数値化する手段を手に入れた。概念と手段が揃った。集団的サイコパスの社会実装は秒読み段階に入ったと考えるのが道理だろう。この個人と集団、というシビュラ測定の新たな視座は、次のシーズンの下敷きになるのではないか。</p>
<p>ぼくは劇中で「紛争計数」ということばを耳にしたとき、『虐殺器官』のなかで”虐殺の文法”を使って世界中で起こる虐殺の予兆を嗅ぎ取っていたジョン・ポールを思い出したのだけど、Twitterを見ていると同じ発想に至った人がけっこう多かったらしい。同じく『虐殺器官』つながりで言えば、ピースブレイカーひいては砺波が神と崇めるAIジェネラルの設定が、これまた虐殺っぽい。本来はメンタルケア目的の医療用AIながら、外地の紛争で大量虐殺を遂行できるよう改造された、という設定。ほら、なんとなく『虐殺器官』の痛覚マスキングと感情適合調整を思い出すでしょ？</p>
<p>それから、これは以前から気になっていたのだけれど、サイコパスの世界に於ける「軍」ってどういう位置づけなんだろう。今回、冒頭の会議シーンで国防省と法務省のお歴々が登場していたけど、日本以外の国が内紛でズタボロになっている世界観において、安全保障やら抑止力といった考えは現代ほどの価値を持っているんだろうか。劇場版１作目を見たかぎりだと、この世界における日本国は海外諸国に「シビュラという法と秩序」を輸出し、他国を啓蒙する現代アメリカ的な性格が強いので、他国の内紛に軍事介入し、内政干渉する道具立てとして、軍隊が機能していると考えるのが妥当なのか？　日本の外は紛争だらけという設定からして、軍に入隊して外国に派遣されると色相悪化は避けられないはずだ。</p>
<p>だとすれば、この時代の軍隊は『ゲーム・オブ・スローンズ』のナイツウォッチよろしく、社会的な落伍者たちの体の良い流刑地になっているんだろうか。テレビシリーズ第２期で須郷の古巣である、国防省のドローン兵器施設が出てきた時に思ったけど、おそらくこの時代の国軍兵力──とりわけ歩兵の大半はドローンが担っているんだろう。だから要求される人員としてはさほど多くないはず。人口が激減し、首都圏以外は著しく過疎しているという設定だし（第１期の雑賀先生のセリフにあったし、劇場版１作目で旅客機の窓外に映る日本列島を見れば一目瞭然）</p>
<p>それにしても、サイコパス世界の政治的力学のトップ構造がどうなっているのか、すごく気になる……</p>
<p>そして、最後に気になったのは「ダモクレスの剣」だ。鑑賞後にTwitterを見ていると、「ダモクレスの剣が出てきた」というツイートを見かけたのだけど、どこに出てきたんだろうか。全然気づけなかった。</p>
<p>やっぱり２回目観に行くべきだな、これは。</p>
<h2 id="sec-5">シビュラシステムは神ではない</h2>
<p>とまぁ、ここまで『サイコパス プロビデンス』の面白さを「映画」と「ファンサ」という２つの視点から語ってきた。ここからは面白さの根幹と言っても過言ではない「物語／主題」について書いていきたい。</p>
<p>サイコパスという作品が第１期からずっと変わらず問い続けてきたこと。それは幸福の形であり、社会の在り方だ。人にとって、社会にとっての真の幸福とは一体何なのか？　どうすれば、より良い社会が築けるのか？　そのために我々は何ができるのか？　シビュラシステムは人類に何をもたらすのか──恩恵か、それとも害悪か。</p>
<p>現実世界に、理想的な幸福を社会に実装する装置「シビュラシステム」を代入することで、人類社会の「幸福」の姿を導出する──このエクストラポレーションこそがサイコパスという作品の魅力であり、世界観の根幹を成す思弁だ。</p>
<p>そして今作では、シビュラシステムが完全ならば、法を撤廃してもいいのではないか？　という立問がなされる。</p>
<p>ここで改めて、シビュラシステムについて確認しておこう。シビュラシステムとは、厚生省が提供する「包括的生涯福祉支援システム」である。サイマティックスキャンによって計測した生体力場を解析し、市民の深層的な精神状態を科学的に分析。そうして得られたデータをサイコパスとして数値化し、その数値に基づいて職業適性から恋人適性まで、様々な適性を個人に提示／推奨する。それらの公共サービス全般を提供する基幹インフラである。</p>
<p>ドミネーターの判断基準にもなっている「犯罪係数」は、サイコパス（色相）を犯罪者摘発という目的のもとに数値化したものを指す。つまり、シビュラシステムは全国民を「犯罪者」と「それ以外」という２種類の人間に峻別するが、それだけがシステムの機能ではない、ということだ。この前提条件を誤ったまま、今作の主題である「法の撤廃」を「そんな非現実的な話があるわけない。ナンセンスだ」と切り捨てているレビューブログを読んだので、くどいようだが確認させてもらう。</p>
<p>サイコパスの世界では、現実世界の刑法にあたる機能をシビュラシステムが担っている。そう、物語の開始時点からして既にシビュラシステムは法の一部として機能しているのだ。そもそもの時点からして、サイコパスの世界観では三権分立が成立していない。現実世界で犯罪者を裁く場合、逮捕→起訴→実刑という流れになるが、サイコパスの世界ではこのプロセス一切が存在しない。裁判所が無いからだ。犯罪者か否かを裁くのはシビュラシステムであり、その根拠となるのは「犯罪係数」だ。サイコパスの世界には裁判所も刑務所もなく（隔離施設に入るのは服役ではなく治療だ）、警察による逮捕という概念自体が存在しない。</p>
<p>第１期で常守朱が槙島聖護と初めて対峙したシーンで、市民憲章に基づいて同行を求める描写があるが、これはあくまで任意同行だ。この市民憲章というのはおそらく、シビュラシステム統制下の社会で暮らす人々に、システムの勧告に従うような気風を培うための綱領なのだろう。法的強制力が弱いゆえに、槇島のような札付きでも任意同行で済まされる。</p>
<p>そもそも「法」とはなんだろう。法とは国家の規範であり、人間がより良い社会を築くためのルールだ。法と一口に言っても様々な「法」がある。自然法やら実定法、成文法、公法、私法、社会法……今作で取り沙汰されている「法の撤廃」は、おそらくこれら全ての法の撤廃のことだろう。冒頭の官僚たちが議論しているシーンで、法務省の解体も検討されている、といった発言があったことからも、撤廃の対象となるのは刑法だけではないはずだ。（というか、過去のテレビシリーズで裁判官やら弁護士といった職種がかなり昔に消えた、というセリフがあったし、シビュラシステムの正式運用が開始された時点で、現行の刑法は実質的に撤廃されたも同然だと考えられる）</p>
<p>というか、すべての法を撤廃して日本国は国家として維持できるのか？</p>
<p>それが不可能と切り捨てるわけにはいかんのだわ。</p>
<p>犯罪者の判決を下す裁定者という機能以上の多くを、シビュラシステムは持っているからだ。</p>
<p>全ての事象を正しく、公平かつ公正に、平等に断じることのできる存在。もしそんな無謬を可能にする存在があるとすれば「神」に等しい。今作『プロビデンス』が問うているのはまさにこれだ。</p>
<p>シビュラシステムは神なのか？　シビュラシステムが神に等しい全能存在ならば、国家の、社会の基盤である法を取り除いても何ら不都合は生じないだろう、という仮説を投げかけているのだ。本作のタイトルに冠する「プロビデンス」という言葉は、日本語に訳するなら「神の摂理」となる。フリーメーソンのシンボルマークとして名高いプロビデンスの目は、すべてを見通す全能の目を意味する。何もかも見通す万能存在とはシビュラである。シビュラは神なのか否か──</p>
<p>シリーズを追いかけてきたぼくらは、その答えを痛いほどよく知っている。
シビュラは決して神ではなく、瑕疵を負ったシステムであることを。</p>
<p>ここでシビュラシステムを構成するモジュールについて立ち返ってみたい。あらゆる法を撤廃してもシビュラが万能ならば国家（社会）が正常に機能する、という仮説に現実的な説得力を持たせるためにはシビュラシステムの因数分解が不可避だからだ。</p>
<p>シビュラシステムの詳細なメカニズムは作中で明らかにされていないが、おそらく次のような複数モジュールの複合体だと推測できる。</p>
<ul>
<li>膨大な並列演算処理を可能とするスパコン（量子コンピューター）</li>
<li>犯罪歴、逮捕歴など現実世界の警察／諜報機関が有するような犯罪データベース</li>
<li>人間を観察し続けることで蓄積された統計情報に基づく人間の行動予測に関する理論</li>
<li>ストレスという概念の習得／理解<ul>
<li>個々人によって感じるストレスには差異がある。ストレスという概念を理解したうえで、個々人のパーソナリティを理解し、ストレス要因を分析し、判断できる能力</li>
</ul>
</li>
<li>ストレス、という定性的な事柄を定量化する計算手法<ul>
<li>人間とは異なるプロセスで、しかし人間と同じように理解し、判断できる能力が必要となる。ここで問題になるのは、人間と同じように理解できるということはつまり、その裁定者がたとえ機械であったとしても恣意的な判断になるのではないか、ということ。</li>
<li>ユニット化され、認知処理能力を大幅に増強した脳が担っているのは、おそらくこの処理。</li>
<li>作中の描写を見る限り、シビュラシステムは200余の脳ユニットが協議していると思われる。この協議によって「色相」の最終ジャッジを行っている。だがこの協議によって合意に至るというプロセスは人間の意思決定モデルと同じでもある。</li>
</ul>
</li>
<li>生体力場を解析する能力<ul>
<li>そもそも、「生体力場」とは何なのか。</li>
</ul>
</li>
<li>全国民の戸籍情報、財務状態、家庭環境、行動履歴、医療情報、職歴など……個人に関するあらゆるデータ。<ul>
<li>全国民にIDを付与し、個人の情報を一元管理するシステム。マイナンバー制度がその黎明だろう。</li>
<li>街頭のいたるところにスキャナーが設置され、システムに認証されなければ社会的に存在しないと見做される。</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>ときは２２世紀──現代よりも数層倍、情報化が加速し、あらゆるモノがオンラインに接続された時代。個人に関するあらゆる情報はIDのもとに一元管理されているはずだ。そして「色相」が社会的な階級を保証するのだから、それら一元管理された個人情報のすべてにシビュラシステムが介在しているのだろう。個人に関するあらゆる情報を参照できなければ「包括的生涯福祉支援システム」と名乗る資格はないのだから。</p>
<p>ここまで社会に、国家にシビュラシステムがしっかりと巣食っている状況下なら、シビュラに不可能はないはずだ。あらゆる法を撤廃したとしても、国家としてはこれまで通り正常に機能するだろう。全国民にあらゆる公共サービスを提供することが可能だろう。ただし、「シビュラシステムが真に万能であるのなら」という留保がつくのだが。</p>
<p>もしもシビュラが神なら、唯一にして絶対の規範となり得るのなら、それは法をも包摂する。ならば、法を撤廃しても影響はない。これがシビュラシステムの主張する「法の撤廃」である。だが、過去何度も描かれてきたようにシビュラは決して神ではない。</p>
<p>シビュラシステムの不完全性のひとつは、ヒトをただしく理解できていないことだ。人間は真に理性的な存在ではない。人間はヒトである以前に動物であり、理性だけでは推し量れない矛盾を抱えた複雑な存在である。人間は歩く矛盾であるという可能性をシビュラシステムは完全に度外視している。残虐でいびつな部分を人間だれしもが持っている。殺し合いは太古から現在に至るまで人間の娯楽だった。フィクションは血で塗れているし（アガサ・クリスティの著作だけで一体何人が死んだと思う？）、人類の歴史も血で真っ赤に染まっている。歴史家の推定によれば、記録に残る有史時代に入ってから発生した戦争の回数は、１万５０００回をくだらないという。またフランスの社会学者ブートルーは、講和条約をともなった戦争が少なくとも８０００回に達していると指摘している。</p>
<p>ローマのコロッセオ、ショービジネスとしての格闘技、FPSゲーム。ヒトは血を好む。健康に悪いと分かっていながらジャンクフードを食べるし、酒を飲み、タバコを吸う。考えている事と、言ってること、実際やってること──この三者がバラバラなのが良くも悪くもふつうの人間だ。斯くもヒトは欠陥だらけで矛盾に満ちている。だが、それすらも含めて個性である、という事実をシビュラシステムは許容しない。そういった個性は「シビュラ的ではない」として、矛盾に満ちた個性を否定する。槙島聖護は否定の余地なく人殺しだが、矛盾と欠陥に満ちた人間の個性を愛していたという点に於いて、どのキャラクターよりも人間的だった。</p>
<p>第１期の宜野座のセリフを引用するならば、人間という生き物は「歴史に学んで」いても結局のところ、経験を通してしか何事も体得しえない愚かでちっぽけな存在である。法は人がつくるものだ。人は間違いを犯す。ゆえに法もまた、ほころびを持つ。真に理性的で公平な判断を下すことができる存在がいるならば──矛盾と欠陥を抱えた人間の上位存在がいるならば、その存在に統治を委ねればいい。人間よりも理性的で完璧な存在、AIに主体を明け渡せばより良い社会が築けるのではないか。これがAIジェネラルを擁立して国家樹立を宣言した砺波の主張だ。「人が人を支配し続ける限り、必ず誰かが不当に殺される」と砺波は言う。外務省の海外実働部隊として外地で悲惨な戦禍を目の当たりにしてきた砺波の経歴を考えると、このセリフはなかなか重い。</p>
<p>シビュラは不完全なシステムだ。ヒトがそうであるように。そしてシビュラはヒトの不完全性が許容できないゆえに不完全なシステムなのだ。シビュラシステムが万能の「神」でないのなら、法を撤廃することはできない。だから常守朱は本作のラストシーンで禾生局長を射殺したのだ。</p>
<h2 id="sec-6">常森朱の抱くビジョンとは</h2>
<p>常守朱は強かだ。霜月美佳とは異なり、決して妥協しないからだ。シビュラ社会で生きていくためには、ある時点で妥協する（シビュラ的になる）必要がある。システムに反抗すれば色相が悪化し、落伍者のレッテルを貼られるからだ。だが、朱は妥協せず、人間の可能性を信じ続ける。</p>
<p>人間は矛盾と欠陥だらけであり、弱さ／脆さを持った存在であるとわきまえたうえで、それでも尚、朱は人間の可能性に賭けている。シビュラシステムの真相を知り、システムの不完全性を幾度も目の当たりにし、シビュラシステムを軽蔑しながらもその存在を受け入れている。オーウェル風に言えばダブルシンク（二重思考）を器用にやってのけている。サイコパスに登場した過去のヴィラン達は、人間の弱さ／脆さを搦め手に、シビュラ社会の欠陥を衝いてきた。だが常守朱は違う。法とシビュラを共存させることによって、両者の欠陥を補完し合うよう促す。</p>
<p>法とは歴史の先達たちが連綿と築き上げてきた努力の結晶である。法を撤廃するということは、それら全ての蓄積が、努力が灰燼に帰するということだ。だから朱は絶対に法を守らなければならないと主張する。法の撤廃とは歴史に、人類に対する敬意を欠いた暴挙に他ならず、法とシビュラという両輪を運用することによってシビュラの不完全性を補うことができるからだ。</p>
<p>２０世紀後半、冷戦の終結とともに敗北した社会主義に取って代わった民主主義は、現代のグローバルスタンダードとなった。建国から現在に至るアメリカを見れば明らかなように、現代の「模範解答」である民主主義とて、いまだ発展の途上にある（近年は国内の分断が加速して、むしろ後退しているような気もするけど）</p>
<p>法も社会も、決して完遂されることのない営為に他ならず、たゆまぬ自助努力が要求される、決して終わりのないマラソンのようなものだと思う。日本の場合、他国と比べて歴史が長いので、先達たちが作った礎石が常に用意されていて、アメリカのようにゼロから地続きになっているという実感が湧きにくいのかもしれない。常に議論し続け、考え続けること──その蓄積こそが法である。決してラクな道ではない。けれど、常守朱はその茨の道を選んだ。人間の可能性に賭けているがゆえに。</p>
<p>シビュラシステムのある社会とは何だろう。法もシビュラも、目指す理想は軌を一にしている。人々を幸福たらしめること。最大多数の最大幸福。シビュラシステムの導入によって、劇中の日本は表面上、理想的な幸福を実現している。シビュラシステムによる推奨に従っていれば、おのずと幸福が実現できると約束された世界。</p>
<p>理想郷。桃源郷。ユートピア。ギリシャ語で「どこに存在しない」を意味する「ユー」と「場所」を意味する「トポス」を掛け合わせた言葉。トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。</p>
<p>シビュラが定めた「あるべき姿」に向けて、全国民が教導される世界。そこには文化的モザイクも多文化主義も入る余地は残されていない。多様性は消失し、個性の幅は今よりぐっと狭まっているはずだ。トルストイは『アンナ・カリーナ』のなかで、次のように述べている。「幸福な家庭はすべて互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」。右を見ても左を見ても、同じような「型」に当てはまった人間ばかりが量産されていく世界。シビュラシステム自体が人間の個性を理解できていないのだから、個性のバリエーションが乏しくなるのは当然の帰結だ。そんな人間の個性を偏愛していた槙島聖護は、シビュラシステムの御託宣に唯々諾々と従って生きる人間は、生きながらに死んでいるのと同じだと考えた。人は自らの意思に従って行動したときのみ価値を持つ、と。「人は考える葦である」というパスカルの言葉を引くまでもなく、つねに考え続けることで人は真の意味での自由を得られる。これは常守朱の選んだ結末と、その選択に至った思想とも共鳴している。</p>
<p>人々にとって、社会にとって真の幸福とは何なんだろうか。これはサイコパスが第１期から変わらず問い続けてきたことであり、常守朱が様々な経験を通しながら探し続けてきたものでもある。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「幸福とは何か」という問いに次のように応答した。よい大工とはなにか。それは「よい家を作る」という、大工としての仕事を果たす人である。よい笛吹とはなにか。それは「よい演奏をする」という、笛吹きとしての仕事を果たす人である。</p>
<p>それぞれのよさは、それぞれに特有の「技術」の「卓越性」に他ならない。では人間に特有の「技術」とはどんなもので、「卓越性」とはなんだろうか──つまり、よい人間とはどんなものか。これがアリストテレスが立てた問いだった。アリストテレスはこの答えとして「思慮《フローネシス》」を挙げている。注意深く、物事を様々な側面から考えることであり、他人の立場を慮ることである。雑賀譲二が朱に遺した言葉「正義も真実も多面的だ。上から見ないと理解できないこともある」が思い出される。</p>
<p>脳は省エネを好む傾向にある、という事実は多くの研究によって明らかにされている。人の脳というのは、意識的に考えようとしない限り、考えるようにはできていない。感情は判断のショートカットだし、往々にして理性よりも先行する。だが、そんな脳のデフォルト状態に抗って、思考し、議論し続けること。それこそが人々が、ひいては社会がより良くなるための唯一の道なのだと、常守朱は示している。</p>
<p>幸福とは、外部から付与される状況ではない。幸福とは個人が感じる状態のことだ。他者（シビュラシステム）から押し付けられた「幸福」は、果たして本当の幸福なんだろうか。人間は他人はおろか自分のことすら十全に理解できない。そんな自分ですら気づけていない本質を汲み取って、当人にとって最適な道標を示してくれるシビュラシステム。本人すら気づいていないのだから、「これがあなたにとっての幸福です」と押し付けられても、実感など湧くはずもない。それでもシビュラの御託宣を受け入れてしまうのは、システムに対する盲目的な信頼ゆえであり、システムを疑ったりする能動的な思慮の欠如ゆえである。</p>
<p>近代というのは、全ての人間を計算可能で予測可能で管理可能で、絶えず同じ運動をし続ける、合理的な機械のように画一化しようと試みたプロジェクトだ。近代というプロジェクトが人々から生の実感を奪って久しい。何も考えず、何の疑問も持たず、ただ時の流れるのに身を任せ、言われたことだけをやり、生きて死んでいくことで、それで社会はこれまで通りに回っていく。近代という仕組みは、そのようにしてぼくたちに、ただ単に生きて死ぬことを働きかける。</p>
<p>世界的に二極化が進んでいる。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなった。2016年のトランプ／ブレグジット騒動を皮切りに、先進諸国の国内分断も加速した。サイコパスの設定では、シビュラシステム導入の契機となったのは貧富の格差による国内の内戦と暴動となっている。現実世界がサイコパスと同じ轍を踏まぬよう、本作を見終えたぼくたちは「よりよい社会」について倦まず弛まず考え続けていきたい。</p>
<blockquote>
<p>「人間とは悪徳の動物である。犯罪は、生命の存在に欠かせない条件だ。社会は本質的に犯罪なのだ」<cite class="quote-source">— 『闇の奥』を書き上げたあと、ジョセフ・コンラッドが友人にあてた手紙</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>恋愛資本主義から恋愛全体主義へ</title>
    <link>https://indi-visual11.com/renai-capitalism/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-renai-capitalism</guid>
    <pubDate>Sun, 11 Sep 2022 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>みんな、恋愛恋愛と言い過ぎなのだ</description>
    <content:encoded><![CDATA[<h2 id="sec-1">恋愛資本主義</h2>
<p>会社で使っているパソコンの中に面白いファイルがあった。ハードディスクの海底２万マイル、ディレクトリツリーの深層にあったそのファイルにはこう書かれていた──「趣味：恋愛資本主義との闘争」</p>
<p>僕は小規模のゲーム制作会社に勤めていて、くだんのファイルは過去に考案された企画に登場予定だったキャラクターの設定らしい。恋愛資本主義に中指をおっ立てるようなアウトサイダーなニヒリストが、サブキャラで登場するゲームを過去に製作しようとしていたという事実にも興味を惹かれるけれど、それよりもなによりも僕の興味は「恋愛資本主義」なるパワーワードに否応なく惹きつけられた。</p>
<p>資本主義──健全な民主主義にとってのプロテイン。社会主義という山火事においては火勢を強める颶風であり、国家／社会／グローバリゼーション／文明の発展に不可欠な血液。カバーする領域も温度感も、およそ恋愛とは不釣り合いな言葉。そんなワードが恋愛という通俗的な言葉と癒着しているアンバランスさに、正直いってグロテスクな感懐すら抱いた。</p>
<p>恋愛資本主義というパワーワードは、嚥下し損ねた魚の骨よろしく僕の頭の中に刺さり続け、繁殖するウイルスのごとく僕の無意識を侵蝕していった。くだんのファイルを発見し、恋愛資本主義というワードを知ったのはかれこれ数ヶ月も前になるのだけれど、今日に至るまで僕は「恋愛資本主義」を事あるごとに思い出し、信号の待ち時間や一服している寸時に、ふと反芻しては思いを巡らせていた。Googleの検索結果にいっかな期待していない僕は、ググるという発想に至らなかった。そして先日、ふと思い立ってググってみた。これはひょっとすると過去にネットミームになっていたり、SNSで話題になったりして、一部の界隈では一般化している言葉なんじゃないか。そう思ったのだ。</p>
<p class="noind">「陽の下に新しきものなしですよ」と説諭してみせたシャーロック・ホームズはやはり正しかった。ググった結果、「恋愛資本主義」とはオタクな思想家の本田透氏が著作『電波男』の中で提唱した概念だと判明した。はてなキーワードによると、以下のように解釈されているらしい。</p>
<blockquote>
<ul>
<li>個々人の恋愛行為が、メディアや広告代理店の流布する大量のイメージに縛られ、資本の論理に汚染されている状況</li>
<li>純愛物語が、安直な映画・ドラマ・書籍などによって金儲けの道具にされ（娯楽のレベルに落とし込まれ）、逆に恋愛の至高性が失われている状況</li>
<li>「年収○○○万以上でないと」のような、金持ちであることが恋愛の条件になり、愛情とお金（や車・家など）が交換可能になっている状況</li>
<li>そもそも愛情などという観念が消え失せ、恋愛・結婚がお金（や車・家など）と顔面の美しさの交換と化している状況</li>
<li>恋愛行為が、他人に相手を見せびらかしたり他人に優越感を持ったりする目的で行われ、他者の欲望を欲望するという契機のもと、資本主義的な差異の体系に（ボードリヤールの意味での「商品」を買うときのように）取り込まれてしまう状況</li>
<li>人を愛するということが、物を買うこと（そのために高い服を買う、出会い系を利用する、クラブに行ってみる、高い車を買う、高い料理を食べる等）と同一の規律として内面化されている状況
出典：<a href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E6%81%8B%E6%84%9B%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9">はてなキワード</a></li>
</ul>
</blockquote>
<p>要するに、シェイクスピア作劇で描かれるような理想的な純愛像は現代において消費の対象に堕した。もはや恋愛は消費の対象でしかなく、資本主義というシステムに組み込まれて変成した、というのが要旨のようだ。</p>
<p>僕は浅学にして『電波男』を読んではいないのだけど、「恋愛資本主義」という概念は肌感覚的にわかる気がする。もっとも、『電波男』が上梓されたのは2005年で、同年にはオタク文化がライト化する土壌を用意したある意味ではエポックな映画『電車男』が公開されていることには留保が必要だ。時は流れて現代──2022年。</p>
<p>スマホが普及してマッチングアプリが電車の吊り革広告になるほど社会に浸透し、モラトリアムの臭気がかすかに残る若い女性が実利主義にはしった結果うまれたパパ活なる概念がお茶の間のニュースで取りざたされる時代。17年前と変わらず恋愛は今も消費の対象であり続けているけれど、その消費のされ方は格段に複雑化した。</p>
<p class="noind">「恋愛資本主義」という言葉への対置を試みるなら、恋愛を取り巻く今般の状況は「恋愛全体主義」と言えるのではないか。最初は単なる言葉遊びの思いつきに過ぎなかったのだけれど、今は「我ながらいい線ついているんじゃないか」と思っている。</p>
<blockquote>
<p>「今の時代、結婚って安定じゃないですからね」<cite class="quote-source">— 映画『愛がなんだ』</cite></p></blockquote>
<h2 id="sec-2">恋愛資本主義の派生形</h2>
<p>恋愛資本主義があるのなら、恋愛民主主義があってもいいんじゃないか。恋愛個人主義も、恋愛共産主義も、あるいは恋愛ファシズム（これはちょっとイヤだな……）、恋愛ドクトリン、恋愛バブル、恋愛ニューディール、恋愛ウォーターゲート、恋愛博愛主義、恋愛全体主義、恋愛教条主義、恋愛ベルサイユ条約、エトセトラ、エトセトラ…………</p>
<p>恋愛のプレイヤーはひとしく個人であり、よってすべての恋愛は恋愛個人主義だと言える。非モテとかインセルを自称する人たちが主張するのは、極言すれば「なんで俺たちだけが」という僻み嫉みである。彼らが望むのは恋愛の絶対的な平等化、それをイデオロギーとして思想に定着させ、運動体たらしめれば恋愛共産主義に、それを国家レベルで追求すれば恋愛社会主義になる。</p>
<p>恋愛ファシズムなんて想像するだに恐ろしい世界だけれど、漫画『恋と嘘』や『ブラックミラー』シーズン4第1話『HANG THE DJ』の世界観がこれに近い。恋愛し、愛を涵養し、その持続的な成果として産まれるのが子どもだと捉えるのなら、中国の一人っ子政策も広義の恋愛ファシズムと言えるだろう。</p>
<p>恋愛ドクトリンは、親戚の年長者や会社の上司が心得顔で語る「いいか、恋愛っていうのはな」とか「男と女ってさ」という類のおはなし。人はみな誰しも恋愛について一家言持っている。恋愛巧者も恋愛未経験者でも、こうすればいいはずという戦略的観点は持っているはずで、それは恋愛におけるドクトリンにほかならない。恋愛というゲームは個人プレイ専用で、その戦略はおのずと個人レベルに限定される。だからドクトリンの本来の語義とは異なるが、戦略という意味で用いれば、恋愛に対する戦略的なアプローチはすべからく恋愛ドクトリンとなる。</p>
<p>失恋をウォール街っぽく言い換えれば恋愛バブルと相成る。恋に落ちると、脳内にはセロトニンやらドーパミンといった快楽物資が充満する。いわゆる恋の病にかかった状態である。だが悲しいかな、人は何にでも慣れてしまうもので、恋に落ちて告白、いざ付き合い始めて1年も経った頃には快楽物資の分泌量はすっかり漸減し、酩酊したような夢心地から覚めると、今まで見えていなかった相手の欠点が目立つようになる。身も蓋もない言い方をすれば、正気に帰るのである。そうやって相手の欠点／不満点の数がカウントアップされていき、何かの拍子に爆発し、別れることになる。この一連の感情のアップダウン、何かと似てる気がする──そう、バブル崩壊前後の折れ線グラフじゃないか。</p>
<p>恋愛ニューディール、これはなかなか意味のわからん言葉である。レトリックの限りを尽くして冷戦下の核戦争の可能性を論じたハーマン・カーンに勝るとも劣らない意味の分からなさである。そもそも恋愛を国家事業化して、国難を脱するための方策がまったくもって想像つかない。少子高齢化対策の一環として、日本政府が政策を立案したうえで婚活ではなく恋愛に介入してくる、というなら一応は恋愛ニューディールに該当するんだろうけれど、すべての人間は合理的かつ理性的であるという前提条件に基づく経済モデルやシミュレーションと異なり、恋愛には感情や性格といった属人的な要素が大きく関わってくるので、そもそも政策として成立し得ない。意味を成さないので、言葉としても成立しない。</p>
<p>恋愛ウォーターゲート。週刊誌やLINEニュースで定期的に流れてくる芸能人の破局報道を横文字にしてスノッブふうに言えば全部これに該当する。なんだか村上春樹的な大仰さというか、西尾維新的な言葉遊び感というか、そういう得体のしれないエネルギーを発している言葉である。おそらく村上春樹の小説の主人公なら、芸能人の破局報道を目にしても「やれやれ」と言いながらフィッツジェラルドを読んでいるに相違ない。</p>
<h2 id="sec-3">恋愛全体主義</h2>
<p>余興がすぎたが、ここで恋愛全体主義という言葉について考えてみる。恋愛全体主義とは何か。端的に言えば、みんな恋愛恋愛と言い過ぎなのである。ここれでいう「みんな」とは友人／知人は言うに及ばず、バラエティ番組も、邦画や漫画、インターネット、ひいては社会全体を指す。</p>
<p>コンテンツとして消費するため、俎上に載せられる消費対象としての「恋愛」。それがかつての恋愛資本主義だったとするならば、現代はそれがより過剰になり、「恋愛」について意識過剰になった結果、「恋愛し、結婚すること＝絶対的かつ普遍な幸福の形」という価値観が、冥々裡のうちに社会全体に刷り込まれているのではないか。つまり、現代における「恋愛」とは「幸福の形」という価値観を刷り込むための社会的な教化装置なのではないか。みんなが気づかないうちに、ある一定の価値観を刷り込まれてしまう、それは全体主義なのではないか、というのが僕の論旨だ。</p>
<p>恋愛資本主義は「恋愛資本主義」を包摂している。恋愛がコンテンツの俎上に載せられ、消費され続けた結果うまれたのが全体主義としての恋愛という状況だ。電車に乗れば利用者数No1を謳う「タップル」の広告が目に入る。Instagramは勝手に収集したユーザー情報から新規のマッチングアプリを広告でレコメンドし、邦画も漫画もアニメもTwitterで流れてくる４ページくらいの漫画も、恋愛について過剰なまでに言及している。</p>
<p>人は感情を獲得してこのかた、恋愛について悩まされてきた。ゲーテは自殺者を大量に生み出し、ロミオとジュリエットは初演から現代まで何度も舞台の上で逢着と離別を繰り返し、暴力とセックスが映画の黎明期から定番の題材だったことからもこれは明らかだ。種を存続させるための生殖本能としての「恋愛」。それが僕たちの「恋愛」に対する自然な距離感だとするならば、現代の「恋愛」に対する過剰なまでの言及は、熱病じみていると言えなくはないか。スマホが普及し、情報の流れが幾何級数的に加速化した結果、恋愛についての言及がいや増し、今次のような熱病じみた状況──価値観の刷り込み──恋愛全体主義が生まれたのではないか。</p>
<p>非モテという概念は、もともと友人／知人間で交わされるローカルな話のネタだったはずだ。それがコンテツとなって大衆に消費されることで、同時に「非モテ」という概念と化して大衆にインストールされる。あるいは、女性との接点をほとんど持たなかった一部の男たちが、彼女を持った陽キャ男子に対し、最初は憧憬を抱いていたが、それが匿名掲示板で横溢した結果、反動保守的な運動体として「インセル」という概念が西欧社会に産み落とされた。最初は「俺だって彼女ほしい」という普遍的かつ共感を呼ぶ心の声でしかなったそれが、情報インフラによって増幅され、いつしか反動保守的な言説へと転じてしまった。</p>
<p>邦画は戯画じみたキッチュな恋愛像を量産し続けているし、ライトノベルもまた同じ。恋愛について過剰すぎる現代の象徴的な作品を挙げるなら『かぐや様は告らせたい』がその筆頭だろう。「好きな人に好きって言いたい」──たったそれだけのことなのに、過剰に考えすぎた結果、本心とは別の行動を取る／相手が意想外の行動に出ることによる諧謔。</p>
<p>思春期のころ、好きな人に不器用にアプローチする同性に後ろ指をさして、陰でゲラゲラと呵呵大笑した覚えは誰にでもあるはずだ。『かぐや様』はそれの拡張再生産に他ならず、視聴者だけが全てを見通して登場人物たちの滑稽なまでの不器用さを笑いのネタとして消費するというジャンル化された様式でいえば、『テラスハウス』もまた『かぐや様』と同じ系譜に位置づけられる。</p>
<h3 id="sec-4">恋愛＝幸せの形という刷り込み</h3>
<p>社会全体が恋愛について過剰なまでに言及し続けた結果、恋人がいる人に焦点が当てられ、独り身の人は相対的に敗北感を味わう。恋愛することこそが正義であり、恋愛しないのは常道を逸している。そんな風潮がじわじわと醸成され、「ヤバい、もう30代やわ。そろそろガチで婚活せなアカン」という釈然としない焦燥感を抱き、ますます恋愛に血道を上げる。これを全体主義と言わずして何というのか。</p>
<p>幸せの定義は人それぞれあって然るべきだし、少なくとも「恋愛＝正義」という価値観を押し付けられて、唯唯諾諾とそれを甘受する必要性は微塵もない。思考停止に陥り、緩やかに変節していく状況を甘受し始めたときに全体主義が完成される。「ん？　なんかこれ違うくね？」と人々が現状について疑義を挟んだ頃には遅きに失し、全体主義は社会を被覆して誰にも止めることはできない。この先に待つのは、ただ緩慢とした思想的な死のみである。</p>
<p>そうは言っても、そんなにうまく自分の寂しさをコントロールできないし、なかなか寝つけない深更に、ふと人肌が恋しくなったり、自分のことを深く理解してくれる相手が欲しくなることがままあるのもまた事実。それが人情というものであり、孤独というものだ。それはわかる。酒宴の席などで恋愛対象である異性／同性に身体を寄せられたり、飛行機の離陸前にＣＡさんがベルトの装着を促すべく接近してきたりしたときに、ふと肉欲が沸き上がる。そういった生理的欲求が自分の孤独をことさら意識させ、「はぁ……恋人ほしい……」というマインドに帰結する。それもわかる。だって人間だもの。</p>
<p>結局のところ、「男と女（以下、LGBTQを考慮しない表現だが便宜上あえてこう呼ばせもらう）」とはそういうものなのかもしれない。僕は昼間は会社員、夜はキャバクラで働いていて、前職もまた繁華街で夜の仕事をしていたのだけれど、夜の街に遊びにくる大金をもった男たちを見ていて痛感することがある。それは、人間はどれだけ理知的に成長しても、結局は温かいとか気持ちがいいとか、そういったプリミティブなレベルで行動してしまう生きものだということ。</p>
<p>妻子のいる壮年の男が、なぜ一晩でホステスやキャバ嬢に数十万円も払うのか。日曜日は家族サービスに精を出す家庭人が、なぜホステスの誕生日にプラダのバッグをプレゼントするのか。それは結局のところ「男と女」だからであり、逆に言えば「男と女」というのは、それだけのことでしかないのだ。</p>
<p>自分が男／女であり、相手が女／男である。自分が女／男であり、相手が男／女である。そこには欲情が絡む。恐怖と欲情は人間にとって防御できない要素である。だからこそホラー映画とポルノ映画は普遍にして不滅の存在なのだ。こと恋愛において欲情は必要条件ではないが十分条件であり、両者が密接に絡み合って恋愛の複雑性に裨益している。</p>
<p>こういったプリミティブな感情は、僕たちの脳にあらかじめ組み込まれている「種の生存本能」がなせるわざだし、そういった本能を持つ個人で形成された社会には、あらかじめ恋愛を促進する装置が内蔵されている。それをことさらに意識させるのが現代の状況──恋愛全体主義であり、現代に生きる僕たちに、この卑劣な罠から逃れる術はもはやない。</p>
<p>かろうじて抵抗を試みるとするならば、自分にとって本当の幸せについて思いを巡らせることくらいだろう。人の数だけ現実があるように、幸福の数もまた人の数だけ存在する。『ファイト・クラブ』のなかでタイラー・ダーデンは言う──「人生の待ち時間はいつかゼロになる」</p>
<p>休日の繁華街を歩いている時に、手を繋いで楽しそうに談笑するカップルを見て素直に「あぁ、良い光景だなぁ」と思うことがある。僕はもうかれこれ４年も恋人がいない状態だけど、今のところ恋人が欲しいとは思わない。けれど、そうは言っても僕だって人の子なわけで、異性を求める生理的な欲望が皆無なわけではない。</p>
<p>くだんのカップルを見つめながら、僕は想像をめぐらせる。もし自分が恋人を見つけて結婚し、家庭を持ち、人生の花盛りを過ぎた60代を迎えた時の自分の姿を。休日の昼下がり、ふとした拍子に感傷的になって過去の自分を顧みる。そのとき、自分の過去に満足できているのだろうか、と。</p>
<p>僕には死ぬまでにやりたい目標が両手の数ほどある。これをやるまでは車に轢かれても、地震で倒壊した瓦礫に生き埋めにされても、絶対に死ぬもんかと心に決めている「やりたいこと」がある。何度想像をめぐらせても、「やりたいこと」をやらぬままに、自分の本心を無視したままに家庭を築き、日銭を稼いで育児に奔走したとして、おそらく僕は僕自身を許せないと思う。</p>
<p>郊外の建売住宅で妻と子どもがいて、犬と猫が一匹ずつ、車が一台。ファンキーモンキーベイビーズが歌の中で描くような、日本のノーマン・ロックウェルふうの牧歌的な家族像。僕にはそれがしっくりこない。恋愛／情愛と「やりたいこと」を天秤にかけたとき、圧倒的な大差で「やりたいこと」が勝利する。それが僕にとっての幸せの形なんだろう。こんな人間だから、恋愛をめぐる過剰なまでの言説に意識が働くのかもしれない。</p>
<p>恋愛資本主義から恋愛全体主義への変遷を論じながら、この駄文を書いている僕もまた恋愛全体主義に寄与しているというパラドックス。人間は感情で動く生きものだし、恋愛は感情が織りなす現象ゆえに僕はこのパラドックスから逃れることができない。なんだかムシャクシャしてきたのでサマセット・モームを引用して強引に結文とする。</p>
<blockquote>
<p>恋愛、それは種の存続を達成するために仕掛けられた卑劣な罠だ。<cite class="quote-source">— サマセット・モーム</cite></p></blockquote>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>物語という糧</title>
    <link>https://indi-visual11.com/monogatari-toiu-kate/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-monogatari-toiu-kate</guid>
    <pubDate>Sun, 28 Aug 2022 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>日記</category>
    <description>良質な物語は、生きる糧になる</description>
    <content:encoded><![CDATA[<blockquote>
<p>「これまでの人生のほとんどを空想の中で生きてきた」<cite class="quote-source">— 『euphoria Season2』レクシー・ハワード</cite></p></blockquote>
<p>最近、『機龍警察』を読み始めた。『機龍警察』は早川書房から刊行されている日本の警察小説シリーズで、ジャンルとしては冒険小説になる。<a href="https://www.hayakawabooks.com/n/n6e04b5543e0f">現在、長編が６冊、短編集が１冊ある。</a>僕は３人以上の人から「これ面白いよ」と言われたものは迷わず手に取るようにしている。『機龍警察』もその１つだった。シリーズ２作目を読み始めたときにはもう、ページをめくる手が止まらなかった。息もつかせぬ緊張感、命の駆け引きによるスリル、意表を突きまくる展開にページをめくり続けた。お盆に帰省した僕は、新大阪駅のドトールコーヒーで帰りの新幹線を待つ間、注文したコーヒーを飲むのも忘れて２作目を一気に読み終えた。次の日、迷わずジュンク堂に行って、シリーズ全巻をまとめ買いした。</p>
<p>３作目以降も、一気に読んだ。もう止まらなかった。なにも手につかないほど夢中になった。驚天動地のストーリー展開のあまり読書中に「うぉ……！」と呻いたのも、文字どおり寝食を忘れて読書したのも、本当に久しぶりだった。こんなにハマって小説をイッキ読みしたのは『三体』以来だった。あまりにもおもしろすぎる小説を読むと、もちろんそれを書いた作家さんのことが気になり始める。当然のなりゆきで、『機龍警察』の著者である月村了衛さんのインタビューを読んだ。そのなかで、胸にささった言葉があった。</p>
<blockquote>
<p>「良質な物語は生きる糧になるんですよ」</p>
</blockquote>
<p>この主張は肌感覚的にすごく腑に落ちた。冒頭で引用したセリフ──アメリカで社会現象化したHBOのドラマシリーズ『euphoria』のシーズン２で、自己の殻を破り、物語を書くことで自分を表現する決意をしたレクシー・ハワードが言うセリフ。僕はまったくもってこのセリフを地で行くタイプの人間で、物語の世界に逃避しつづけてきた。思い出を振り返ってみても、どこかでなにかをしたという実体験よりも、あの小説のあのシーンの情景とか、あの映画のあのシーンといった空想上の風景のほうがすぐに思い浮かぶ。そういう人間だからこそ、良質な物語が生きる糧になるというのはすごく共感できた。</p>
<p>糧になるというのは「これを読むまでは死ねない」というオタク的な情熱だけでなく、空想上での体験が自己を形成するという実際的な作用も含まれる。心が折れたとき、ふたたび立ち上がる気力をくれたのは、僕にとってはフィクション上の人物だったし、自分の体験したことに新たな視座をもたらしてくれたのも小説や映画といった物語だった。</p>
<p>実生活上でお世話になった人や、影響を受けたメンターのような方々もいる。だが、そういった人びとと同じくらい、僕はフィクションで出会った人物たちからも影響を受けている。そういった影響の累積が、現在の僕を形づくっている。その感覚はずっと前からあった。</p>
<p class="noind">『ハウス・オブ・カード』のフランク・アンダーウッド、ダニエル・クレイグ版のジェームズ・ボンド、『マルタの鷹』のサム・スペード、『グッドフェローズ』のトミー、『カリートの道』のカリート・ブリガンデ、『銀河英雄伝説』のオスカー・フォン・ロイエンタール、『メタルギアソリッド』のリキッド・スネーク／ビッグボス、『ゲーム・オブ・スローンズ』のアーリア・スターク、『ピーキー・ブラインダーズ』のトミー・シェルビー、グラナダ版と原作のシャーロック・ホームズ、『アラビアのロレンス』のトーマス・ロレンス、『パト2』の後藤隊長、そして、僕にとっての中学時代からのヒーロー『トランスポーター』のフランク・マーティン──影響を受けたと自覚している人物だけでも、挙げればきりがない。</p>
<p>彼らは空想上の存在にすぎない。僕は彼らと何らかの会話をしたわけでも、教えを受けたわけでもない。僕にあるのは、想像の世界で彼らと同じ体験を共有したという疑似体験だけだ。</p>
<blockquote>
<p>「本を読む者は、死ぬまでに何千もの人生を生きることができる。
　読書をしない者は、たった一つの人生しか生きられない」<cite class="quote-source">— ジョージ・RR・マーティン</cite></p></blockquote>
<p>物語に触れることは、自分以外の誰かの人生を疑似体験することだ。小説を読んだり映画を観たりしているとき、僕たちは空想の世界の人物とともに行動し、同じ体験を共有し、感情を揺り動かされ、同じ時間を生きている。それらはすべて疑似体験にすぎないが、立派な経験であることに変わりはない。読書中の脳をモニタリングした実験では、物語の中で苦痛や恐怖を感じたとき、僕たちの脳はそれらを実際に感じたときと同じ反応を示したという。</p>
<p>疑似体験であっても体験であることに変わりはない。実体験でも疑似体験でも、経験としての質に差異はない。そうであるならば、想像の世界で体験した出来事は、僕たちに確かな影響を及ぼしているはずだ。そういった影響を知らずしらずのうちに受け続け、自分自身の糧として吸収する。もちろん僕たちは、書店の入り口に平積みされているような、トレンドに便乗しただけの薄っぺらいハウツー本を読む人たちとは違って、意識の高い目的をもって読書したり映画鑑賞したりしているわけではない。なにかを学ぼうと、吸収しようという高尚かつ明確な目的意識をもって物語に触れているわけではない。だが、僕たちのような物語に取り憑かれた人種は、もっとおもしろい物語を求めて、次々と他の作品に手をのばす。そして、そこでまた新たな人物たちと出会い、新たな疑似体験を経て、自己の糧とする。</p>
<p>映画や小説に限らず、すべての娯楽（エンターテイメント）は、身も蓋もない言い方をすれば「暇つぶし」である。余暇の時間を使う「暇つぶし」でしかなく、その暇つぶしの手段として空想の世界に逃げこむという行為は、現実逃避いがいの何ものでもない。授業中や仕事中に、無聊をかこって妄想するのと根源的には同じことだ。</p>
<p>僕のような空想の世界に生きる内向的な人間は、現実逃避ばかりしている人間とそしられても反論できない。だけど、僕はこう思う──現実逃避してなにが悪いのか。べつに居直っているわけじゃない。自分の実生活を顧みてほしい。日々の現実に心底満足している人なんてこの世にいないはずだ。もしそんな人がいるとしたら、おそらく生きているという実感をまったく欠いた人だけだろう。人生はいつだって容赦なく、全力全開のハードモードだし、運命はいつだってロシア文学的な皮肉を差し込んでくるし、自然という超越的存在は人類の存亡には無関心だ。</p>
<p>だが、多少の抵抗や逆境といった負荷がないと、生きている実感が得られないというのもまた事実である。もしみんなが現実に満足していれば文学もロックも映画も生まれなかった。創作する原動力は現実世界への不満であり、主流派に対するカウンターカルチャーだ。現実に満足している人間には、ハリー・ポッターのような記念碑的な物語を書けるわけがない。</p>
<p>時々、こんな妄想をすることがある。もし音楽も小説も映画も存在しない世界に生まれていたら、そこはどんな世界なんだろうかと。もしそんな世界が存在するとしたら、そこでの生活はソースのないパスタを食べるような味気なさで窒息するだろう。もし世界から音楽と小説と映画がなくなったら、そんな世界に生きる価値はない。少なくとも、僕にとっての生きる価値は。</p>
<p>だから僕は今日も本を読み、映画を観て、空想の世界に逃げこむ。堂々と現実逃避するべく、可処分時間の大半を空想の世界に費やす。物語の世界にどっぷり入り込み、全力で楽しむ。そうすることで、物語は僕にとって生きる糧となる。まったく無自覚のうちに、物語のキャラクターが、そこでの経験が、僕の血肉となって未来の僕を形づくる。</p>
<p>PS.</p>
<p class="noind">「あぁ、だりぃ、暇」という人が周りにいたら、有無を言わさず『機龍警察』を勧めましょう。マジで、ガチで、冗談ぬきでクソおもしろいです。これは広告ではなく、歴然たる布教活動です。読みましょう。読んでください。時間がマッハで溶けていくこと請け合います。</p>
]]></content:encoded>
  </item>
  <item>
    <title>ヘヴィメタルという殺意</title>
    <link>https://indi-visual11.com/heavy-metal-satsui/</link>
    <guid isPermaLink="false">essay-heavy-metal-satsui</guid>
    <pubDate>Sun, 28 Aug 2022 00:00:00 GMT</pubDate>
    <category>音楽</category>
    <description>殺意の結晶、生きるための賦活剤</description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>ヘヴィメタルが好きだ。超絶技巧のギターリフが脳髄を青白く灼きあげ、怒涛のブラストビートがアドレナリンを誘発させ、激情に任せた高音シャウトとデスボイスがおのれの憤怒と同化する。ヘヴィメタルがつむぐメッセージはきわめてシンプルだ。「殺せ」──刃物のような危うさをはらんだ臨済録の有名な一節、「逢著すればすなわち殺せ」と本質的には同じなのだ。異論反論の余地はおおいにある。それは認める。だが、僕にとってのヘヴィメタルとは「殺意」の結晶にほかならない。</p>
<p>愛こそが正義である。困難を前にして人を突き動かす原動力は、愛をおいてほかにない──これが一般的な社会通念だ。けど、僕たちは経験から知っている。それは理想論であって、日々の生活──現実を生きるうえでクソの役にも立たないことを。いつの時代でも、人間を最後に奮い立たせるのは「怒り」だ。愛は困難な事業を達成する動機たり得るが、原動力たり得ない。愛によって動機づけられた行為を完遂するエネルギーを生むのは怒りだけなのだ。</p>
<p>怒りは、食うか食われるかの狩猟採集時代から人間に備わった自己防衛システムだ。認知論の研究者たちが言う「闘争／逃走本能」。その本質は正当防衛としての「殺意」である。さまざまな形・種類の怒りがあれど、怒りをくすぶらせ続けると、最終的には殺意へ収斂する。</p>
<p>殺意は他人に向けて振り回せば一線を踏み外すが、自分自身と己を取り巻く状況に対して振り向ければ逆境を粉砕する原動力となる。とはいえ、文化的で平穏な日々をすごす現代の僕たちにとって、殺意を抱くほどの怒り、あるいは殺意そのものを抱くというのは、あまりにも非日常にすぎる。かつて野生の食性だったネコが、人間に飼われ続けた結果すっかり牙を抜かれ、イエネコと化したように。そんな僕たちに「殺意」の塊を注入し、エネルギーを充填する賦活剤──それがヘヴィメタルなのだ。</p>
<p><a href="https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014706/">海外のとある研究者</a>が、音楽というのは何らかの感情を脳に抱かせるある種の言語である、というおもしろい仮説を提唱している。<a class="fn-ref" id="fnref-1" href="#fn-1" role="doc-noteref">[1]</a>思い返してみれば、僕たちはその日の気分によって聴く音楽を選んでいる。休日にリラックスしたいときにはルドヴィコ・エイナウディのピアノが聴きたくなるし、仕事が終わった開放感に浸りたいときはサザンオールスターズあたりの明るいポップスが聴きたくなる。クラブの喧騒に身を置けばアヴィーチーやアラン・ウォーカーあたりのEDMが聴きたくなるし、感傷的な気分のときには、ティーンエイジに聴いていた音楽を聴きたくなる。そのロジックでいくと、僕をふくめたヘヴィメタルリスナー（メタルヘッズ）たちは「殺意」のエネルギーを日常的に欲しているということになるのではないか。</p>
<p>爆音轟音に乗せた「殺意」というエネルギーの奔流で脳内を撹拌する。そうして日々を生きるエネルギーを充填しているのだ。裏を返せば、ヘヴィメタルという賦活剤なくして「殺意」を抱けない──口当たりのいい言葉に言いかえるなら「逃走／闘争本能」のスイッチが入らない。だから日常的に「殺意」を「殺気」を渇望する。メタルヘッズから劇薬たるヘヴィメタルを取り上げると内向的で温和な人間がたち現れる。過去に実施された計調査では、ヘヴィメタルやパンクを好む人にはジャンル由来のイメージに反し、内気で繊細な人が多かったという。もっともこの調査はかなり眉唾もので、自意識と自己評価の高い人がジャズを好む傾向にあり、年収の高い人がクラシックを好む傾向にあると記しており、あまりにもステレオタイプ的すぎないかと思う部分もあるのだけれど。</p>
<p>ふだんは立派な家庭人のお父さんが、メタリカのライブに行くと激変する。かつてインタビューの中で、メタリカのフロントマン、ジェイムズ・ヘットフィールドがそう言っていた。おそらく、メタルヘッズにおとなしくて内向的な人が多いという傾向は、まったくの的外れというわけでもないと思う。ただ、メタルヘッズには人一倍のエネルギーが必要なのだ。日々の困難に立ち向かうために、殺意という劇薬じみたエネルギーの塊を必要としているのだ。</p>
<p>ヘヴィメタルの黎明について考えたとき、そこには間違いなく「殺意」があった。圧倒的な暴虐性と暴力性、世間のメインストリームに中指をおっ立て、アウトサイダーの旗印を掲げて同類たちを糾合する、そんな磁場めいたエネルギーがあった。レッド・ツェッペリンやブラック・サバス、ディープ・パープルが地盤を固め、その土壌をアイアン・メイデンやメタリカ、ハロウィンたちがアスファルトで舗装し、舗装された路面の上にX JAPANやパンテラ、ジューダス・プリーストといった面々がビルを建てた。</p>
<p>そうして先達たちが遺したものを受け継いでヘヴィメタルは今日にいたるまで進化しつづけてきた。ツェッペリンやブラック・サバスの時代には野ざらしだったヘヴィメタルという荒れ地は、いまや摩天楼が建ち並ぶ一大都市へと進化した。ヘヴィメタル史のなかでいくつもの潮流が生まれ、それらが分岐と合流を繰り返し、ヘヴィメタルのサブジャンルは百科事典なみに細分化された。</p>
<p>ヘヴィメタルはロックを親にもつ。ロックはカウンターカルチャーの中で生まれ、社会のアウトサイダーたちの洗礼を受けた。その血統を受け継ぐヘヴィメタルもまた、ロックの反骨精神を引き継ぎ、さらにそこへ暴力性を取り込んだ。かつてメタリカやガンズ・アンド・ローゼズがデビューしたとき、他のハードロックバンドと彼らの暴力性は性質的に異なっていた。多くのハードロックバンドが自己セーブをかけて、あくまで「ポーズ」としての暴虐性をとっていたのに対し、メタリカやガンズの提示した暴虐性は本物だった。そして彼らに影響を受けた後続バンドたちは、ステロイド剤で格闘家のような筋肉を携え、全身にタトゥーを彫り、長髪を振り乱してヘドバンを決めるというヘヴィメタルにおける様式美を確立した。</p>
<p>そういった様式美もすべては「殺意」を表現するための手段である。オジーがコウモリを食べるのも、Yoshikiがドラムをぶっ壊すのも、スレイヤーがライブ会場に血の雨を降らせるのも、北欧のヴァイキングメタルバンドのフォロワーたちが、ヴィヴィランドサガ顔負けの隊列陣形を組んで船を漕ぐモッシュパフォーマンスを行うのも、すべては「殺せ」というシンプルなメッセージを体現せんがためである。</p>
<blockquote>
<p>「裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。<cite class="quote-source">— 『臨済録』</cite></p></blockquote>
<blockquote>
<p>「誰かが殺しに来たら立ち向かい、こちらが先に殺せ」<cite class="quote-source">— バビロニア・タルムード『サンヘドリン』篇72章1節</cite></p></blockquote>
<p>ヘヴィメタルは殺意の奔流である。サブジャンルが異なれど、メロディが違えど、その本質は潔いほど一貫している。手を変え品を変えリスナーに「殺意」を植えつける。だが、この「手を変え品を変え」の部分がじつに多様なのもまた、ヘヴィメタルの特徴である。</p>
<p>まず国・地域ごとにメロディの傾向が違う。メタルの聖地たる北欧のバンドは、ギターリフや曲調に常にペーソスが漂っている。イギリスのバンドは多くのリスナーが求めるオーセンティックな良曲を生み出し続け、ドイツのバンドは北欧と違ったベクトルの情感をメロディに組み込む。アメリカは商業路線から耽美的なメロディアス、オーセンティックまで、すべてを網羅したウォルマート的な市場を形成している。北欧とアメリカの間に位置する日本は、メロディアスなギターが特徴的な北欧の傾向と、耳なじみする聴きやすいアメリカ的要素を融合させた、独自の世界観を有している。</p>
<p>百科事典なみの細分化を経たヘヴィメタルのサブジャンルも「手を変え品を変え」の多様性を反映した結果といえる。低音グルーヴのデスボイスからロブ・ハルフォードのような高音シャウト。ひたすらシックに低音を響かせ続けるグランジ寄りのギターから、超絶技巧を繰り広げるメロディアス寄りのギター。そういった演奏の差異はサブジャンルへと昇華され、サブジャンルがまた新たなサブジャンルを生んで進化する。</p>
<p>ジャンルの多様性の一片を挙げれば、ヘヴィメタルという暴虐一色の世界観に、耽美主義という新たな価値観を持ち込んだ北欧系メロディクデスメタル。都会的に洗練されたモダンな世界観のなかで「暴力と美の共存」をブレイウダウンによって実現したメタルコア。暴力性の極北を体現せしめたスラッシュメタル／デスメタル。大仰かつ壮大な世界観で、リスナーを幻想世界へといざなうパワーメタル／シンフォニックメタル。レディオヘッド顔負けの前衛的アプローチをメタルでやってのけるオルタナティブメタル。</p>
<p>ヘヴィメタルのサブジャンルはじつに多様性に富んでいる。ひとことに「お雑煮」と言っても各家庭ごとに具材と味が異なるのと似ている。だが、そんな多様性もすべては「殺意」に帰結する。</p>
<p>ふだんの日常に疲れたとき、現実に押し負けそうになったとき、僕はそっとイヤホンをつけて爆音でヘヴィメタルを聴く。暴虐的な音の洪水が全身に注ぎ込まれ、身体の奥からふつふつと「殺意」がみなぎってくる。アドレナリンが身体中を疾駆して、闘争／逃走本能が励起する。僕のほうに向かってくる現実も、日々の不満も苛立ちも、それらすべてをひっくるめて爆砕する。それが僕の生き方──ハードモードな現実世界に立ち向かう、たったひとつの冴えたやりかた。</p>

<section class="footnotes" role="doc-endnotes" aria-label="注釈">
<h2 class="footnotes-title">注釈</h2>
<ol class="fn-list">
<li id="fn-1"><a href="https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014706/">〈脳と文明〉の暗号──言語と音楽、驚異の起源</a> <a href="#fnref-1" class="fn-back" aria-label="本文へ戻る">↩</a></li>
</ol>
</section>]]></content:encoded>
  </item>
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